上杉謙信公が軍神として崇めた毘沙門天の「毘」の一字を軍旗として掲げた「刀八毘沙門の旗」

上杉時代館の「直江兼続公」講座

上杉軍団総攻撃の旗印「懸かり乱れの龍の旗」

兼続公さ愛さ愛べ!

「あいさあいべ!」とは「会いに行きましょう!」という意味の米沢弁です。

「あいさあいべ」とは「会いに行きましょう」という意味の米沢弁です


兼続公の米沢

藩政

治水

建設

軍備

文人

その他

文 人 直 江 兼 続 公

 

 

 

 

生涯学問の人

兼続公を語る上で忘れてはならないのが生涯学問の人であったということです。景勝公の近習として春日山城に入って以来、兼続公は学問を志す上で大変恵まれた環境の中で成長して行くことになります。それは城主であり景勝公の養父でもあった謙信公が学問に対してとても熱心であったからです。春日山城で基礎を築いた兼続公の学問は、その後京都五山へと発展し上杉家の執政として多忙を極める中にでも常に学問を忘れることなく生涯を送って行きます。

 

京都

     

京都

京都五山というと毎年8月16日に京都で行われる「五山の送り火」(大文字、左大文字、妙、法、鳥居形、船形)が思い浮かびますが、兼続公の時代に京都五山と言えば京都にある臨済宗(禅宗)の六寺院を指す言葉でした。これらの六寺院は室町幕府によって選ばれ保護されて来た寺で、第一位から第五位まで順位がつけられた五つの寺とこれらの寺の最高峰に位置する別格の寺から成っていました。当時の京都五山は日本の学問の中心的存在であり、儒学を中心とした漢文学は五山文学と称されそこに学ぶ僧侶達は五山僧と呼ばれていました。五山僧は室町時代から幕府や織田信長、豊臣秀吉、徳川家康をはじめ戦国武将達ともつながりや交流を持ち、豊臣秀吉と徳川家康はこの五山僧を政治顧問として政権の中枢にまで登用しています。

別 格

南 禅 寺

第三位

建 仁 寺

第一位

天 龍 寺

第四位

東 福 寺

第二位

相 国 寺

第五位

万 寿 寺

 

僧侶

西 笑 承 兌 と 南 化 玄 興

僧侶

兼続公が二度目の京都に入ったのは天正16年(1588年)4月、兼続公29歳の時でした。兼続公は京都五山第二位臨済宗相国寺の僧「西笑承兌」と臨済宗妙心寺派大本山の僧「南化玄興」の元を訪ねます。これが南化玄興との出会いの時でありこの後生涯に渡り交流が続き兼続公にとって南化玄興は学問の師となって行きます。

西笑承兌は豊臣秀吉の政治顧問を務め、相国寺は室町時代から京都五山として時の政権からの保護を受け政治とも密接な関係を持って来た寺でしたが、一方の妙心寺はこれら保護を受けていた寺とは一線を画し在野として政治との関わりを一切持たず修行を重んじる厳しい禅宗寺として存在を誇示していました。

そんな妙心寺の南化玄興ですが唯一豊臣秀吉とは交流をもっており、この出会いの裏には秀吉の人脈があったのかも知れません。

※南化玄興:天文7年(1538年)〜慶長9年(1604年)

 

兼 続 公 に ま つ わ る 書 籍

古文真宝後集抄(こぶんしんぽうこうしゅうしょう)

20巻  南化玄興から一ヶ月で書写

天正16年(1588年) 29歳 

文鑑(もんかがみ) 12巻 漢文の辞書

南化玄興から書写

慶長4年(1599年) 40歳 

聖済総録(せいさいそうろく) 200巻 医学書

朝鮮出兵時、九州名護屋にて書写

文禄元年(1592年) 33歳 

文選(もんぜん) → 直江版文選

日本初銅活字印刷で要法寺から刊行

慶長12年(1607年) 48歳 

宋版史記(そうはんしき) 90巻

南化玄興から贈られる

文禄の頃ヵ(時期不明) 34歳 

軍法(ぐんぽう)

兼続公著の実践的な兵法書

慶長13年(1608年)以降ヵ 

漢書(かんしょ) → 前漢書

南化玄興から贈られる

文禄4年(1595年) 36歳 

秘伝集(ひでんしゅう)

兼続公著の戦の縁起担ぎと心構え

慶長13年(1608年)以降ヵ 

鉄砲稽古定は「軍備」参照。尚、済世救方については「文献」参照。

 

直 江 版 文 選

慶長12年(1607年)、京都の要法寺から直江版文選が刊行されました。そもそも文選とは中国南北朝時代(439年〜589年)に南朝梁の昭明太子(501年〜531年)によって編集された書物で、周の時代(紀元前1046年〜紀元前256年)から梁の時代(502年〜557年)までの優れた漢文や漢詩と論文を集め全30巻で刊行されたのが始まりです。その後中国では文選文化が起こり「○○○文選」と名付けられた文選がいくつも刊行されています。

直江版の文選は、中国の南宋時代(1127年〜1279年)の「五臣注文選」(1158年刊行)に唐の時代(618年〜907年)の「李善注文選」(初唐に刊行)を加えて編集され60巻31冊で刊行されました。

要法寺は日蓮大聖人の弟子僧「日尊」(日蓮本宗第四代)が延慶元年(1308年)に開いた寺院で、直江版文選の刊行は同寺の「日性」によって行われました。これまで書籍を複数本刊行する際は書き写すことが主流でしたが、日性は日本で初となる銅活字を用いて直江版文選を刊行しています。日性はこの後もこの銅活字を用いて発刊を手掛け、朝鮮出兵の時に豊臣秀吉に随行した涸轍祖博の書「千字文―涸轍書院所刻」も日性の手による物でした。

涸轍祖博は朝鮮で活字印刷に注目しその技術を日本に導入した僧の一人と言われ、兼続公は朝鮮出兵の際に豊臣秀吉を通じ涸轍と出会っています。また涸轍と日性(円智)は共に足利学校に学んだ僧でした。ここに南化玄興の「五山文学」とは別に「足利学校」という兼続公の学問のもう一つの流れが生まれていたのです。兼続公の学問の道筋には少なからず豊臣秀吉の人脈というものが見え隠れしています。

直江版文選

直江版文選は幕府の儒学者「林羅山」も上杉景勝公を通じ入手しています。尚、兼続公没後6年の寛永2年(1625年)にお船の方が再版した直江版文選は発見されておらず史料として記録が残るのみです。

 

     

涸轍祖博(こてつそはく)という僧の生涯については詳しくわかっていませんが、兼続公とは出会い以来かなり頻繁に交流があり密接な関係を築いて行ったことは間違いありません。兼続公は上杉景勝公の良き相談者でありましたが、涸轍は兼続公の良き相談者であったようです。それを裏付けるように兼続公はこの文選の件の他にも文化事業のことや軍事面のことに至るまで様々なことを涸轍に相談しています。豊臣秀吉には西笑承兌が、徳川家康には天海(足利学校出身)がいたように直江兼続公には涸轍祖博の存在がありました。当時の政治は僧を顧問として意見を聞くことが慣例だったようです。

 

足 利 学 校 と 禅 林 文 庫

兼続公の学問を支えた京都要法寺の日性(円智)、涸轍祖博、そして兼続公が米沢に開いた禅林寺の開祖となった「九山」も足利学校に学んだ僧です。足利学校は現在の栃木県足利市にあり、兼続公が文選を刊行した頃には全国からの入学が絶えず、国内最大の最高学問所として儒学を中心に易学、兵学、医学の講義が行われていました。僧侶でなくても頭を剃毛していれば入学が許可され、また学問としての儒学も京都五山の五山文学とは大きく違い仏教的な内容を排除して純粋に学問だけを探究するという特徴がありました。特に易学については有名で、自らの著書の「軍法」と「秘伝集」に吉凶判断を書いている兼続公にとっては非常に関心の寄せるところであったと思われます。事実、兼続公の蔵書には足利学校に由来する書籍が多数見られ、兼続公の学問は五山文学と足利学校の二つの柱に集約されました。

そしてその集約の場所となったのが元和4年(1618年)に「九山」を開祖として迎え創建された禅林寺(現在の法泉寺)であり禅林文庫だったのです。この時禅林文庫には兼続公の蔵書の他に開祖九山の蔵書も併せて納められました。兼続公が集め学んだ蔵書は米沢の街づくりに活かされ、その後上杉鷹山公の藩政改革の礎となり、藩校興譲館から米沢市立図書館に所蔵され現在「米沢善本」の一部を成しています。

 

兼 続 公 の 漢 詩

兼続公の学問に対する情熱と才能は収集した書籍だけに留まらず兼続公が自ら詠んだ漢詩からもうかがい知ることが出来ます。漢詩は「七言絶句」と呼ばれるもので一行を七文字の漢字で表現しそれを四行連ね28文字の漢字で一つの詩にしたものです。現在確認されている兼続公の詩は全て漢詩のみで和歌(短歌)は確認されていません。

雪夜囲炉

林泉寺所蔵

人 日

林泉寺所蔵

逢 恋

大聖寺所蔵

慶長7年(1602年)2月27日、兼続公は亀岡文殊堂で前田慶次ら家臣達を交え詩歌会を催しています。兼続公は漢詩を七首詠み内一首がこの「逢恋」です。尚、この時詠まれた漢詩33首と和歌67首は「文殊堂詩歌百首」として大聖寺(亀岡文殊堂)に所蔵されています。

 

 

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