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「あいさあいべ!」とは「会いに行きましょう!」という意味の米沢弁です |
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兼続公の米沢 |
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◆ 120万石から30万石へ減封 ◆ |
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関ヶ原の戦い後、上杉家は会津120万石から米沢30万石へと減封されてしまいました。 |
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米沢の城主となった上杉景勝公は、1/4の石高に減封されても家臣の人員整理を行いませんでした。 |
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戦乱の余韻が残る中、四方の国境を徳川方の大名と接する米沢への国替は、多大な不安定要素を |
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はらむことになり、国の防衛が直近の最重要課題だったからです。 |
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上杉景勝公と直江兼続公は、再起をかけた戦いも視野に入れ、徳川家康と四囲の大名に対する |
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備えを進めながら、5000人強の家臣とその家族の生活を守るため次々と策を講じて行きました。 |
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当時30万石規模の大名家の家臣は1000人程でしたので、その苦難は相当なものでした。 |
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給 与 |
勤 務 |
土 地 |
屋 敷 |
休 日 |
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・家臣は1/3 |
・登城は交替制 |
・一旦全てを取上げ与え |
・建物は通りに面して |
・女性子供は菩提寺へ |
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・重臣は1/4 |
・登城のない日は開墾 |
なおす |
建てる |
墓参り |
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・兼続は1/60 |
作業 |
・水路を巡らせ、それを |
・屋敷裏には菜園を |
・外出し見聞を広める |
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基準として屋敷割り |
持つ |
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治 水 |
開 墾 |
農作物 |
商工業振興 |
軍 備 |
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・松川による水害を |
・目標以上に開墾した |
・米、青煤A漆、桑、 |
・商人町の整備 |
・堀の掘削 |
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防ぐ |
場合は税を減免 |
楮、紅花の栽培奨励 |
・土木、建築作業 |
・鉄砲製造 |
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・開墾地への灌漑 |
・表彰、褒美 |
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・鉱山(金、銀)の |
・稽古と訓練の実施 |
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開発 |
上達者に褒美 |
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