上杉謙信公が軍神として崇めた毘沙門天の「毘」の一字を軍旗として掲げた「刀八毘沙門の旗」

上杉時代館の「直江兼続公」講座

上杉軍団総攻撃の旗印「懸かり乱れの龍の旗」

兼続公さ愛さ愛べ!

「あいさあいべ!」とは「会いに行きましょう!」という意味の米沢弁です。

「あいさあいべ」とは「会いに行きましょう」という意味の米沢弁です


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兼続公の米沢

 

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兼続公の生涯

 

 赤 崩 山 (あかくずれやま) と 兜 山 (かぶとやま) 

 

兼続公の米沢

直江兼続公は山の上から米沢盆地を眺めて治水工事の計画を立てたと言われています。

米沢ガイド

 

登ったと思われる山の一つが 「 赤 崩 山 」 です。山の頂上から眼下を見下ろすと、すぐ真下に過去には

 

米沢のお祭り

 

大雨の度に氾濫していた松川が、そしてそのすぐ下流には谷地河原堤防「直江石堤」が見えます。

 

米沢の史跡

 

松川による水害を減らしていかに居住出来る土地を増やして行くか、直江兼続公の壮大な計画の第一歩が

 

ゆかりの地探訪

 

この地から始まりました。尾根の先端部分にはひどく風化し文字が全く読み取れない古い板碑群があり、

 

 

中心の石碑は米沢城(現在の上杉神社)がある北西方向に向けて建てられています。この場所は以前から

 

メール

狼煙(のろし)台や神事など、何かしらの意味を持った重要な場所であったことが伺えます。

この赤崩山には伊達政宗も登ったと伝えられており、直江兼続公は事前に家臣からこの山の存在を聞き

登ったものと思われます。

赤崩山_頂上から見た板碑群

赤崩山の板碑群

赤崩山から米沢市内を望む

白馬の騎士と兜山

兜山

直江兼続公が米沢城下の町割りの指標にしたと言われる 「 兜 山 」 は、赤崩山の西方に位置し、

米沢市内の中心部を南北に走る通りからは、真っすぐ南方正面にその姿を望むことが出来ます。

特に直江兼続公によって新しく造られた商人町である大町(おおまち)の通りでは、現在も南を向いて

道路の延長線上に目をやるとしっかりと兜山の姿を見ることが出来ます。

直江兼続公はこの山を指標にして、道ではなく先ずは水路を掘ったと言われています。米沢の土地は

南側に位置する吾妻山から北に向かうほど標高が下がる南高北低の地形をしています。南から北へと

流れる水路は各所で分岐され城下全体に巡らされました。生活用水を確保した上で道が通され屋敷割りが

行われています。因みに水路は、現代のように道路の端ではなく、水路の両側に道を通したので中央に

ありました。これは通りのどちら側の屋敷からも公平に利用できる他、冬場の融雪を考えてのことでも

ありました。雪国出身の直江兼続公ならではの街づくりと言えます。

   谷地河原堤防(やちがわらていぼう) 「直江石堤(なおえせきてい)  

米沢市内中心部の東側を南から北に流れる松川(最上川)。その上流部の海老が沢橋西側には

大きな丸石を積み重ねて造られた石積堤防が現在も一部(約1.4km)遺されています。これは直江兼続公

によって造られた堤防で、当時は更に下流域に至るまで二重三重に連なっていました。

西吾妻山を源とする松川は流れが急で水量が多くしかも川底が浅い川です。また流域の西側の土地は西に

向かって緩やかに下っており、少しでも大雨が降るとすぐに氾濫し、米沢城下の南部から東部にかけての

広範囲に水が押し寄せ水没の被害が出ていました。水没する土地には居住は勿論、田畑さえ作ることが

出来ず広大な土地が原野と化していたのです。

直江石堤の完成により松川の氾濫は鎮まり、城下南部から東部にかけての土地は安心して居住と耕作が

出来る土地へと生まれ変わりました。直江兼続公は早速そこに水路を巡らせ、町割り屋敷割りを行った他、

堀の掘削、商人町寺町の整備、開墾作業と事業を進めて行きました。

谷地河原堤防「直江石堤」

谷地河原堤防「直江石堤」

直江石堤

直江石堤

直江石堤 蛇堤

造られた時期の違いにより、石の積み方や大きさ、内部構造の違いなど多くのパターンがあります。

現在堤防周辺は「直江堤公園」として整備され、米沢市の指定史跡となっているほか、2008年からは

一帯の住所表記が「直江石堤」に変更されました。尚、周辺は毎年熊が多数出没しており注意が必要です。

   堤防を守った家臣団  「六十在家(ろくじゅうざいけ)

直江兼続公は堤防の完成後、管理や修復、改修等を担う家臣団として六十在家(米沢市芳泉町)を配置

しました。原方衆とも呼ばれ、関根の普門院と笹野観音を基点に城下南部の警護にも当たった家臣団です。

(上杉時代館管理人の妻の実家はこの六十在家の末裔で、現在でも当時を偲ばせる面影が遺されている)

・通りに面した間口には屋敷内への浸水を防ぐための石垣が組まれている。

      ・石垣の上には食用にもなる「 うこぎ 」が植えられ垣根を形成している。

      ・母屋は浸水を考慮して石垣の高さまで盛った土の上に建てられている。

      ・生活用水とした水路は、屋敷内の母屋のすぐ側に通されおり各屋敷専用で共同ではない。

      ・水路の水は今も作物への水やりや収穫した作物の泥洗いに利用されている。

      ・庭には栗、柿、胡桃の大木があり、昔は漆、桑などの木々もあった。

      ・母屋の裏手は、松川の河川敷近くまでご先祖様が開墾された広大な農地が広がる。

六十在家(芳泉町)の石垣とうこぎの垣根

六十在家(芳泉町)の石垣とうこぎの垣根

六十在家(芳泉町)の石垣とうこぎの垣根について

六十在家(芳泉町)の石垣とうこぎの垣根について

六十在家(芳泉町)の武家屋敷

現在、芳泉町(六十在家)では保存会を作り、町並みや石垣、うこぎの垣根を守る活動が行われています。

   (さるおぜき) (ほったてがわ)

「直江石堤」の完成により暴れ川 松川(最上川)は鎮まり、城下には安全な土地が広がりました。

直江兼続公は安全が確保された城下南部から西部にかけての開墾を進めます。ところがこの地域は城下の

東側を流れる松川から遠く離れており、耕作に必要な水利が乏しく、良い結果が得られない状況が続いて

いました。そこで直江兼続公は、松川の水を直江石堤の上流部で取水し、城下の南部と西部を通して北部で

松川に戻す大掛かりな川の掘削を決断します。 地図

川の掘削は順調に進んだものの、取水口となる堰の工事は難航を極めました。直江石堤付近の西側の

土地は西に向かって緩やかに下っていましたが、取水口付近の西側の土地は逆に上っていたのです。

川の水面よりも高い土地に水を導くため、取水する堰では松川の水を一旦大量に蓄えなければならず、そこに

急流多量という条件も重って、通常の何倍も頑丈で大規模な堰が必要だったからです。

 この堰には完成後も幾度となく修理や取水位置の変更をした記録が残されており、その歴史の中には

工事の指揮を務めた家臣が堰の決壊に責任を感じ、堰で切腹したという切腹堰(現在の堰の約200m上流に

痕跡が遺っています)伝説も語り継がれています。

直江兼続公は、工法から堰の名を 「 猿 尾 堰 」、川は「掘」ではなく「堀」という漢字で 「 堀 立 川 」

名付けました。「堀」を用いた意味については当ホームページ内の で記載しています。

猿尾堰(堀立川取水)

猿尾堰(堀立川取水)

猿尾堰(堀立川取水)

林泉寺の東側を流れる堀立川

龍言寺の東側を流れる堀立川

堀立川の完成後、城下の南部には家臣団の原方衆が入り、また西部には直江田屋(田畑の開墾を管理

する役所)が置かれ更なる農地の拡大と米の増産が一気に加速されました。

   (さるおりゅう)

猿尾堰の名前の由来になった猿尾留工法はただ石や土を盛るのではなく、先ず丸太で菱形の木枠を

組みそこに籠に詰めた石や土を隙間なく埋めて行く工法で、当時は最先端の工法でした。

   (りょうしかてい)

龍師火帝の碑(猿尾堰)

龍師火帝の碑

水害からの守護を願い水神を指す「龍師」と日照り干ばつ

からの守護を願い火の神を指す「火帝」の文字を石碑に刻み、

猿尾堰の守り神として直江兼続公によって建てられました。

高さが1.6m、幅2.7m、厚さ1.4m、推定重量10tもある

安山岩の巨石です。

記録のみが残され長年見つかっていませんでしたが、昭和に入ってから河川工事の最中に偶然発見され、

現在はその意を酌み猿尾堰の側に祀られています。

   (おいりみず)

米沢城内で使用する生活用水を確保するために掘られた水路が御入水です。藩主も使う水ということで

「御」を付けて呼ばれました。取水は松川上流部で、猿尾堰のやや下流に取水口(御入水堰)があります。

御入水(城下入口)

直江兼続公は、「 御 入 水 奉 行 」という役職を設けて厳重にその管理に

あたらせています。取水口から七軒町(米沢市城南5丁目)まで来た御入水は、

ここで三方向に分水されます。三系統ともこの先上級家臣団の屋敷内を通り

米沢城に入ることになりますが、中央の水路だけには直江兼続公の秘策が

隠されていました。

七軒町(米沢市城南5丁目)には城門が設けられており、有事の場合は閉じる

御入水(家臣団屋敷)

ことになっていました。しかし門が閉じてしまっては城下南部の原方衆が三の丸、

二の丸、本丸に入ることが出来ません。そこで直江兼続公は御入水の中央の

水路を抜け道として城下に入れるようにしていました。

この秘策は、直江兼続公が31歳の時の天正18年(1590年)に豊臣秀吉の

命で小田原の北条氏政攻めに参戦した際、兵糧攻めにも関わらずなかなか

落城しない要因となった小田原城の秘密水路に影響を受けたのかも知れません。

御入水はその後、城下の各所で分水されるようになり、最終的には40カ所にまで分水され生活用水として

幅広く利用されました。堀立川と御入水は、400年の時を越え今現在も米沢市内を流れ続けています。

   木 場 川(きばがわ)

米沢城下の北西部に居住する中級家臣団の生活用水確保と、米沢南西部の綱木川(つなぎがわ)流域、

大樽川(おおたるがわ)流域の簗沢(やなざわ)、小樽川(こたるがわ)流域の田沢(たざわ)で伐採した木材を

木流しによって運ぶことを目的に、直江兼続公は 「 木 場 川 」 の掘削を命じました。

これら3本の川は合流し舘山(米沢市舘山4丁目)からは鬼面川(おものがわ)と名称を変えて米沢盆地の

西側を流れています。米沢城下の東側を流れる松川(最上川)と同様に豊富な水量がありますが、西端を

流れているため治水工事こそ必要ないものの、水利を得るためにはどうしても新たな川の掘削が必要でした。

取水(帯刀堰)は鬼面川と名称を変える舘山(米沢市舘山3丁目)からで、城下の北西部を流れた木場川は、

上田長尾家(上杉景勝公の生家)の菩提寺である龍言寺(米沢市西大通1丁目)の東側で堀立川へと注いで

います。

帯刀堰(木場川取水)

木場川

木場川

かつての木場に立つ案内板

木流しの様子を刻んだ石碑

   木 場

木場川から木材を陸揚げする作業は三の丸西側の城下口で行われました。運ばれた木材は主に

冬場大量に必要となる薪(まき)として利用された他、建築資材としても利用されました。

昭和11年を最後に木流しの文化は途絶えましたが、今も付近一帯の住所表記は「木場町」となっています。

   (たいとうぜき)

当初は西川堰と名付けられましたが、腰に刀を携えた武士(直江兼続公の直属の家臣団 与板衆)も

工夫に混じり堰の工事に参加したことに由来し、堰の完成後に 「 帯 刀 堰 」 と改名されました。

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