上杉謙信公が軍神として崇めた毘沙門天の「毘」の一字を軍旗として掲げた「刀八毘沙門の旗」

上杉時代館の「直江兼続公」講座

上杉軍団総攻撃の旗印「懸かり乱れの龍の旗」

兼続公さ愛さ愛べ!

「あいさあいべ!」とは「会いに行きましょう!」という意味の米沢弁です。

「あいさあいべ」とは「会いに行きましょう」という意味の米沢弁です


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兼続公の米沢

 

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1598年(慶長3年)

上杉家 会津120万石に移封。28の出城の一つ、米沢城主となる。

 

兼続公の生涯

 

1601年(慶長6年)

上杉家 米沢 30万石に減封。上杉景勝公が米沢城主となる。

 

兼続公の米沢

 

   米沢は400年前に直江兼続公によって造られた町 ◆

 

米沢ガイド

 

慶長6年(1601年)8月、「米沢30万石に減封」の決定によりそれまで静かな町だった米沢が怒涛の

 

米沢のお祭り

 

如く動き始めます。減封前は侍屋敷を除き人口6037人、戸数803戸の小さな町に過ぎなかった米沢が

 

米沢の史跡

 

一気に3万人もの人口増加で大混乱に陥ります。更に降雪と寒さ、住居と食料の不足と、この冬の米沢

 

ゆかりの地探訪

 

は誰もが行く末に不安を抱き、身も心も凍えた冬となりました。そんな米沢を力強く牽引し新しい米沢を

 

 

造って行ったのが直江兼続公でした。

 

メール

 

   城下全体に防衛機能が盛り込まれていました ◆

 

 

戦乱の世が続いていたこの頃は誰一人としてこの後天下泰平の世がやって来るとは考えもしていま

 

 

せんでした。四方の国境を全て徳川方の大名(最上義光、伊達政宗、蒲生秀行、村上頼勝)に囲まれて

 

いた米沢の人々は相当な緊張感を持って生活していたことは間違いありません。しかしこの緊張感が兼

続公の数々の事業を成功に導くことになりました。

 

 

 

 

 

直 江 兼 続 公 が 2 1 年 間 で 米 沢 に 遺 し た 功 績

藩政の刷新と事業

120万石の大家臣団を養うための直江兼続公の取り組み。

治水事業

水は命。暴れる川を鎮め、その力を利とした直江兼続公の取り組み。

米沢の建設

平城の米沢城を守るために城下の内外まで考え抜かれた防衛都市建設。

軍備

徳川との友好を築きながらも進められた軍備の強化。製造と人材育成。

文人直江兼続公

生涯学問の人生。その姿は「智将 直江兼続公」 。まさに文人。

その他
 ・直江山城守重光
 ・与板衆
 ・兜の前立て

「直江重光」、「与板衆」、「兜の前立て」。

上杉鷹山公

1767年(明和4年)、第9代米沢藩主となられた上杉鷹山公は、直江兼続公の

名誉を回復し、直江家断絶後に途絶えていた法要を藩として執り行い、その功績

の継承と発展にお力を注がれました。それ以降、歴代の藩主もその心を受け継ぎ、

直江兼続公の菩提を手厚く弔われました。 400年の時を経た今も尚、米沢には

直江兼続公の偉業が数多く残されています。

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