上杉謙信公が軍神として崇めた毘沙門天の「毘」の一字を軍旗として掲げた「刀八毘沙門の旗」

上杉時代館の「直江兼続公」講座

上杉軍団総攻撃の旗印「懸かり乱れの龍の旗」

兼続公さ愛さ愛べ!

「あいさあいべ!」とは「会いに行きましょう!」という意味の米沢弁です。

「あいさあいべ」とは「会いに行きましょう」という意味の米沢弁です


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四囲の徳川方大名への備え

兼続公は米沢を取り囲む四藩の徳川方大名から領地と民を守るために米沢全体を城として考え軍事機能を持った防衛都市を造り上げて行きます。堀立川に堀としての機能を持たせたり、道路や町割り、家臣団の屋敷の配置など実に数多くのことに兼続公は指示を与え、その機能を高めるための工夫を米沢に盛り込んで行きました。高い石垣、広い堀、高層の天守閣を持たない兼続公の城(城下町)とはどんなものであったのか見て行きたいと思います。

 

御城下絵図

承応2年(1653年)、兼続公没後34年に画かれた絵図

旧町名図

昭和53年(1978年)9月15日、米沢「旧町名を大切にする会」発行

 

米 沢 城

 

慶長6年(1601年)に会津から米沢に減封され米沢城に入城した上杉景勝公と兼続公は本丸に上杉謙信公の祠堂の創設に取り掛かります。天正6年(1578年)3月13日に亡くなられた上杉謙信公の遺骸は、甲冑姿で甕に納められ周りを漆でしっかりと固められていました。上杉景勝公が会津に移封された際に越後を離れ三十万石減封とともに米沢へ移されています。上杉謙信公の存在はその死後も家臣団の精神的な支えであり減封による苦悩下において家臣団の心を一つにする象徴であり続けました。

往古御城下絵図

上杉様より許可を得て掲載しています 上杉謙信公銅像 上杉謙信公祠堂跡 米沢城 米沢城

米沢城(4月22日) 米沢城(4月22日) 米沢城(4月22日) 上杉謙信公御廟(墓所)

兼続公は米沢城本丸の南東部に城下の何所からも見えるように土を盛って高台を造り石垣を組んでその上に祠堂を創設(慶長17年完成)しています。更に南側の二の丸(現在の上杉記念館と伝国の杜西端)には祠堂を守るために11の寺院を配置し、交替で毎日供養を執り行わせ城下で最も神聖な場所としました。寺院の筆頭を務めたのが法音寺で明治9年に謙信公の遺骸が御廟所に移された際現在の場所に移っています。尚、祠堂の建物は長命寺に移設され現在も本堂として現存しています。

 

 

堀 と 城 門 

本丸の堀の名残りとして松岬公園の周りを囲んでいる堀は現在も当時のままに近い状態で残っており、深さが約5.4m(3間)で堀の内側(本丸側)には高さ約5.4mの土居が見られます。当時は土居の上に白壁の塀が本丸を囲むように廻らされていました。

二の丸の堀は深さが約3.6〜4.1m(2間〜2間3尺)で高さが約3.6〜4.1mの土居があり、その上にはやはり白壁の塀が廻らされていました。現在は上杉記念館の南側に僅かに当時の名残りが残っているだけです。

三の丸の堀は深さが4.1m(2間3尺)で高さが約4.1mの土居からなりその上には松の木が植えられていました。現存する堀はありませんが、平和通り駐車場内の南東端と幸町下通りの一本東側の通りに土居の一部が残っています。(現在は土居の高さを利用しすべり台が設置されています)

二の丸の堀 二の丸の堀 三の丸の土居 三の丸の土居

二階建ての大手門(イメージ図)

米沢城北門から北に真っ直ぐ伸びる通りに面した町を「表町」と呼んでいましたが、これは上杉景勝公が慶長6年(1601年)に米沢城に入城されるまで城の正面(通用口)が北門であった名残りで、兼続公により現在のように東側を正面とする形に改修されました。本丸の入口には二階建ての大手門が南向きに建てられ、門の西側には武者溜り(上杉景勝公が城から出発する際に家臣団が整列した場所)が、東側には大手門広場が設けられここに御入水が引き込まれていました。門の東側の地区を「主水(もんど)町」と呼んでいましたが、大手門の東側ということで「門東(もんとう)町」に変更され最上級家臣団(高家衆)の屋敷となります。

 

家 臣 団 と 寺 の 配 置

御城下絵図

 

御城下絵図

侍 組

上杉家最上級家臣団で、上杉一族と武田一族を中心に高家衆、壱番衆、弐番衆、参番衆、四番衆、御年寄衆から成る越後以来の国衆家臣団です。

三手組

謙信公の旗本の馬廻組、景勝公の旗本の五十騎組、兼続公の旗本の与板衆から成る家臣団です。

御徒組

上杉定勝公(景勝公の子、慶長9年1604年8月誕生)の小姓と兼続公、お船の方の小姓を務める旗本から成る家臣団です。

直峯衆

兼続公の生家である樋口家の家臣団です。

御守組

謙信公の側近警備を担当した「長柄組」という武道に優れた家臣団です。

志駄屋敷

越後時代からの直江家配下の家臣(寺泊城主)で30万石に減封となってからは国家老を務めた志駄修理義秀の屋敷です。会津120万石の時は庄内酒田の亀が崎城代を務めていました。

平林屋敷

兼続公の腹心の初代米沢奉行平林正恒の屋敷です。正恒は武田勝頼の家臣でしたが武田家の滅亡後に上杉家に仕官し、兼続公によって見出されました。元和8年(1622年)2月18日米沢で亡くなり東源寺に埋葬されました。

色部屋敷

兼続公の信頼厚い色部長真の上屋敷です。窪田には下屋敷を置き揚北衆を居住させ、また千眼寺を配置して最上街道、最上川、屋代荘防衛の要としました。

寺 町

東寺町北寺町、南は常安寺など四寺、西は街道沿い各所に寺が配置され、三の丸の南端に林泉寺、北端に禅林寺を配置し、この二寺の間には堀がないため家臣団を多く配置し堀立川の堀としての役割を補っています。

城下外

三の丸の外側は、東に前田慶次と堂森善光寺、西に兼続公の下敷、南に原方衆普門院、北は揚北衆千眼寺というように二重、三重に家臣団が配置されていました。

 

御城下絵図(商人町)

商 人 町

谷地河原堤防「直江石堤」の完成により松川の氾濫を鎮めることに成功した兼続公は、今まで水害の危険区域として河原だった三の丸の東側に北と南の街道口を結ぶ新しい道を造ります。そしてこの街道沿いに粡町と大町の2つの商人町を移設し、更に立町、柳町、東町、南町の4つの商人町を新設して6つの商人町を設けました。特に大町の通りからは西側に二の丸の堀を隔て大きな屋敷と高台に建つ謙信公の祠堂が見え、米沢の城下を通る全ての通行人に米沢の繁栄ぶりと上杉の威厳を否応なしに見せつける通りとなりました。

これにより本丸の東側は、二の丸の堀、侍組の屋敷、三の丸の堀、商人町、東寺町、そして松川によって頑丈に守られることになります。尚、福島街道は上杉家のみが利用した街道です。

 

 

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