鉄 砲 の 製 造
天文12年(1543年)8月、日本に初めて種子島に鉄砲が伝わって以来、瞬く間に戦国武将達の手にするところとなった鉄砲はそれまでの武将達の戦術に大きな変化と影響を与えます。兼続公とて例外ではなく越後の時代からかなり鉄砲については熱心に着目しその備えを行っています。会津で製造された20匁筒はもう一つの関ヶ原と言われる最上征伐で威力を発揮し上杉鉄砲隊は多くの軍功を上げています。米沢三十万石に減封されたとはいえこの先いかなる方向に時代が動くか分からなかった当時、鉄砲製造は急務な最重要課題でした。
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「鉄砲一巻之事」からは兼続公がいかに越後の時代から鉄砲の製造と操作技術の研究に熱心であったかがうかがい知れます。天正14年(1586年)、新発田重家の反乱という問題を抱えていた兼続公は、岸和田流の鉄砲の名手でありながら浪人生活をしていた唐人丹後を師範として召抱え、また家臣の川田玄蕃を稲富伊賀守に送って稽古をさせて稲富流砲術を導入し、翌年新発田重家征伐に出陣しています。
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慶長3年(1598年)、会津に移封された時には蒲生家の家臣だった駒木根右近、小川藤次、月岡八右衛門の三人をやはり鉄砲の師範として召抱え、翌々年の最上征伐では駒木根自身が鉄砲隊を指揮し活躍しています。
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慶長6年(1601年)、米沢三十万石に減封されてからの兼続公は、徳川との友好関係を築きながらも秘かに以前にも増して鉄砲の導入に力を注ぐことになります。慶長9年(1604年)、兼続公は人目に触れず火薬の原料の硫黄の調達が可能で、鍛冶に必要となる大量の薪の確保も容易なことから白布高湯に鍛冶工場を開きました。そこに江州国友村(滋賀県長浜市)から吉川惣兵衛と泉州国堺(大阪府堺市)から泉屋松右衛門の二人の鉄砲鍛冶職人を百石で招き本格的に鉄砲の製造に取り掛かります。この工場では10、15、20、30匁筒合わせて1000挺の火縄銃が作られましたが、その中には八寸筒(約25cm)、つまり短筒の製造もしたとの記録があり現存していれば大変貴重で珍しい物ですが残念ながらこの短筒は発見されていません。
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工場があったと見られる場所は現在温泉街に建つ石碑の位置とは異なり、温泉街から更に天元台湯元駅の方に向かい現在米沢市の森林体験交流センターが建っている辺りになります。白布高湯の温泉旅館には先祖が職人達の食事などの世話をしたという記録が残されています。ただし旅館に宿泊した様子はないのでおそらく温泉街の近くに宿舎が設けられていたものと考えられます。
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匁(もんめ)とは重さを表す単位で現在の単位に換算すると一匁は約3.75gに相当します。鉄砲の大きさを表す際にこの匁が用いられますが、これは鉄砲そのものの重量を表したのではなくその鉄砲に込める玉の重さを表したものです。用いる玉の匁数が大きくなると口径も大きくなりそれに合わせて耐久性を上げるために鉄砲の重量も増すことになります。
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