上杉謙信公が軍神として崇めた毘沙門天の「毘」の一字を軍旗として掲げた「刀八毘沙門の旗」

上杉時代館の「直江兼続公」講座

上杉軍団総攻撃の旗印「懸かり乱れの龍の旗」

兼続公さ愛さ愛べ!

「あいさあいべ!」とは「会いに行きましょう!」という意味の米沢弁です。

「あいさあいべ」とは「会いに行きましょう」という意味の米沢弁です


兼続公の米沢

藩政

治水

建設

軍備

文人

その他

軍 備

 

 

 

 

万 年 塔

万年塔(万年堂)は兼続公によって考案された墓石で四角柱の形をした外側の覆いとその中に納められた五輪塔の二重構造で造られています。覆いの大きさは大小様々ですが一様に四角柱の形をしており中身がくり抜かれて空洞になっている他、正面とする面には必ず穴が開けられています。この特徴的な墓石ですが単なるデザインとして造られた訳ではありません。兼続公が寺院を防衛上重要な施設として考え城下の四方に配置したことは先に述べましたが、兼続公は更に墓地の墓石にまでその機能を追求しました。有事の際この万年塔を積み上げて敵から身を隠す盾としたり、火縄銃の銃眼としても考えられていました。また中身が空洞ということで運び出して使うことも考えられ、川まで運び中に土を入れて沈めれば堰き止めて堀を造ったり、川が増水し氾濫の危険性が高まった時には堤防の補強という水防の考えもありました。

直江兼続公夫妻の墓

武田信玄の六男「武田信清」の墓

林泉寺の万年塔

林泉寺の万年塔

林泉寺の直江兼続公(向かって左)とお船の方の万年塔です。男尊女卑の時代にも関わらずお二人のお墓は同じ場所に同じ形、同じ大きさで建っています。兼続公のお船の方への思いとそのお人柄が偲ばれます。正面には直江家の家紋があしらわれています。

林泉寺には武田信玄公の六男武田信清公とその家族も眠っておられます。(写真左から2枚目)万年塔の正面に格子状に開けられた穴は墓石の大きさにより9個、12個、16個があります。

 

堀 立 川

堀立川は灌漑を目的として人工的に掘られた川ですが、「掘った川」ではなく「堀の川」と名付けられています。地形的に防衛を考えると川は重要な位置付けにあり、兼続公の計画の中には「お堀」としての機能も重要な目的として盛り込まれていました。東側の松川と西側の堀立川という形で水利を得ながら城下を守る防衛線になるという二重の利に叶った計画だったのです。

堀立川 堀立川(周防殿堰付近) 堀立川(周防殿堰付近) 堀立川(禅林寺の林が見える)

現在の川の表情を見ていると具体的にその姿は見えて来ませんが、昭和42年の羽越水害の後に護岸工事が行われるまでは市内各所で水の勢いを抑えるために細かく蛇行しており両岸もずっと低い位置にあり、堰き止めれば20m幅のお堀が出来るようになっていた当時の仕組みも見ることが出来ました。現在は蛇行により水の勢いを抑えた南原の巴堀(私有地内のため見学不可)や堰き止めた時に水量調節をした中央七丁目の周防殿(すおうどの)堰が当時を忍ばせています。

 

鉄 砲 の 製 造

天文12年(1543年)8月、日本に初めて種子島に鉄砲が伝わって以来、瞬く間に戦国武将達の手にするところとなった鉄砲はそれまでの武将達の戦術に大きな変化と影響を与えます。兼続公とて例外ではなく越後の時代からかなり鉄砲については熱心に着目しその備えを行っています。会津で製造された20匁筒はもう一つの関ヶ原と言われる最上征伐で威力を発揮し上杉鉄砲隊は多くの軍功を上げています。米沢三十万石に減封されたとはいえこの先いかなる方向に時代が動くか分からなかった当時、鉄砲製造は急務な最重要課題でした。

「鉄砲一巻之事」からは兼続公がいかに越後の時代から鉄砲の製造と操作技術の研究に熱心であったかがうかがい知れます。天正14年(1586年)、新発田重家の反乱という問題を抱えていた兼続公は、岸和田流の鉄砲の名手でありながら浪人生活をしていた唐人丹後を師範として召抱え、また家臣の川田玄蕃を稲富伊賀守に送って稽古をさせて稲富流砲術を導入し、翌年新発田重家征伐に出陣しています。

慶長3年(1598年)、会津に移封された時には蒲生家の家臣だった駒木根右近小川藤次月岡八右衛門の三人をやはり鉄砲の師範として召抱え、翌々年の最上征伐では駒木根自身が鉄砲隊を指揮し活躍しています。

慶長6年(1601年)、米沢三十万石に減封されてからの兼続公は、徳川との友好関係を築きながらも秘かに以前にも増して鉄砲の導入に力を注ぐことになります。慶長9年(1604年)、兼続公は人目に触れず火薬の原料の硫黄の調達が可能で、鍛冶に必要となる大量の薪の確保も容易なことから白布高湯に鍛冶工場を開きました。そこに江州国友村(滋賀県長浜市)から吉川惣兵衛と泉州国堺(大阪府堺市)から泉屋松右衛門の二人の鉄砲鍛冶職人を百石で招き本格的に鉄砲の製造に取り掛かります。この工場では10、15、20、30匁筒合わせて1000挺の火縄銃が作られましたが、その中には八寸筒(約25cm)、つまり短筒の製造もしたとの記録があり現存していれば大変貴重で珍しい物ですが残念ながらこの短筒は発見されていません。

直江兼続公鉄砲鍛造遺跡の碑

工場があったと見られる場所は現在温泉街に建つ石碑の位置とは異なり、温泉街から更に天元台湯元駅の方に向かい現在米沢市の森林体験交流センターが建っている辺りになります。白布高湯の温泉旅館には先祖が職人達の食事などの世話をしたという記録が残されています。ただし旅館に宿泊した様子はないのでおそらく温泉街の近くに宿舎が設けられていたものと考えられます。

(もんめ)とは重さを表す単位で現在の単位に換算すると一匁は約3.75gに相当します。鉄砲の大きさを表す際にこの匁が用いられますが、これは鉄砲そのものの重量を表したのではなくその鉄砲に込める玉の重さを表したものです。用いる玉の匁数が大きくなると口径も大きくなりそれに合わせて耐久性を上げるために鉄砲の重量も増すことになります。

 

鉄 砲 稽 古 定

領内での鉄砲製造に取り掛かった兼続公は、それに合わせて鉄砲を扱う家臣達の技術の向上を目指します。慶長9年(1604年)、鉄砲の製造を開始したこの年、直江家の婿養子として迎えられた老中本多正信の次男政重(直江大和守勝吉)からは田付流が伝わり、武田家の滅亡とともに上杉家に仕官していた九田九左衛門からは種子島流が伝えられました。兼続公はこの九田久左衛門を重用し鉄砲総支配を命じています。

鉄砲稽古定

慶長9年(1604年)11月、兼続公は「鉄砲稽古定」十五ヵ条を造り家臣達に向け鉄砲の稽古に対する心構えと技術について説いています。

1.  教わる者の心構え

2. 教える物の心構え

3. 銃の胴に使う火薬、玉(胴薬)

4. 銃の火蓋に使う火薬(口薬)

5. 火縄

6. 引き金

7. 稽古と組織の在り方

8. 銃を借りること禁止

  9.火薬を借りること禁止

 10.火薬を詰めた銃の注意

 11.銃口の向きの注意

 12.火薬の二度詰めの注意

 13.不発の時の注意

 14.稽古での発射の間合い

 15.稽古は一発のみとする

稽古は戦場を想定し実戦を意識して行うこと

 

馬  場

馬場は馬術の稽古の場として使われて来ましたが、兼続公はこの馬場で鉄砲の稽古も行わせるようになります。広さという絶対条件の他に馬場に併設されている厩の馬達に日頃から銃声を聞かせ慣れさせる目的もあったのかも知れません。城下には馬場町と禅林寺の東側に馬場が設けられ馬術と鉄砲の稽古が行われました。尚、この馬場は秋田藩を追放され上杉家に仕官していたキリシタン武士の人見弁斎宗次の監修で造られた馬場です。人見は上杉家に人見流馬術を伝えています。この後人見は上杉家から仙台藩に移っています。

 

鉄 砲 の 配 備

火縄銃(宮坂考古館様所蔵)

製造と稽古が進むにつれ兼続公は領内の各所に鉄砲を配備して行きます。中でも三の丸の外の北東側には東原の原方衆からなる鉄砲隊(鉄砲町)と弓隊(御弓町)を組織し配置しています。その他、成島林、徳昌寺林、熊野林、長町にも鉄砲が配備され城下の防衛機能は最新鋭の武器によって高められて行くことになります。(写真は宮坂考古館様に所蔵されている火縄銃です)

 

 鉄 砲 屋 町 と 鍛 冶 町

関西から招かれた吉川惣兵衛と泉屋松右衛門の二人の鉄砲職人は、白布高湯での製造を終えた後も米沢に残ることになります。引き続き米沢藩の召抱えとして無税扱いで知行が200石に加増されたほか城下に屋敷が与えられました。他の鉄砲職人達と鉄砲屋町を形成しその東側に位置する鍛冶町とともに城下で鉄砲の製造と修理を続けることになります。

城下で製造を再開した二人は、この後50匁筒、100匁筒というとてつもなく大きな火縄銃を完成させます。50匁ですから玉の重さが約190g、口径が32mm、鉄砲の総重量は30kgを超え100匁筒では更に大きさが増しとても人力だけでは扱えなくなり台車に載せる形になったと言われています。尚、慶長9年(1604年)以降に造られた50匁を超える火縄銃だけを「大筒」と呼んでいます。

 

大 坂 冬 の 陣 、夏 の 陣

砲術隊

慶長19年(1614年)、大坂冬の陣に参戦した上杉軍は、50挺の大筒と680挺の鉄砲を持ち込みます。大筒は雷にも勝るほどの大音響を鳴り響かせ大坂城目掛けて発射されました。この「上杉の雷筒」に震え上った淀殿は和議を結ぶ道を選択したと言われています。また各所での戦闘においても上杉軍の鉄砲隊はその数と技術に勝り存分にその威力を発揮しました。米沢は豊臣秀吉が兼続公に与えた領地でしたが、この時、その米沢の地で兼続公によって造られた鉄砲が豊臣家に終止符を打とうとしていたのです。戦国の時代に幕を下ろし天下泰平の時代が始まろうとしていたこの歴史が動いた瞬間に、ここ米沢の鉄砲屋町と鍛冶町で造られた鉄砲が立ち会っていました。

 

直 江 釜

鉄砲を造る上で重要な材料の鉄ですが、鉄砲の製造にある程度見通しをつけた兼続公は鉄を鋳物に加工し大鉄瓶を造らせています。この鉄瓶の強度は普通の鋳物の2倍もあり相当な重さだったようです。普段は鉄瓶として使用しますが、いざ有事が発生し鉄が必要となった場合はこれを熔かして利用することが考えられていました。

 

 

現在表示されているページは 「 兼続公の米沢 」軍 備 です

トップページ

サイトマップ

兼続公の生涯

兼続公の米沢

米沢ガイド

米沢のお祭り

米沢の史跡

ゆかりの地探訪

 

藩政

治水

建設

軍備

文人

その他


米澤直江會  米沢市直江博士  伝国の杜サポーター  街歩きガイド  直江検定取得  米沢観光文化検定取得

上杉の城下町 山形県米沢市 「上杉時代館」

Copyright  ©  2007-2012  上杉時代館.  All  Rights  Reserved.