【林泉寺と徳昌寺はともに越後を始とする曹洞宗の寺院です】
林泉寺は上杉謙信公の祖父によって創建された寺で、上杉謙信公が7歳の時から厳しい修行を積まれ学問を学ばれた帰依寺でした。一方の徳昌寺は直江家代々の居城である与板にあった直江家の菩提寺でした。当時曹洞宗では末寺においてもその上下関係を厳しく定める寺院統制が行われていましたが、この2つの寺の間では定められていませんでした。
【ではなぜ定められていなかったのでしょう】
林泉寺は上杉家が越後を離れ会津、米沢と移る際に一時法灯を絶やしてしまいました。再建されたのは直江兼続公が亡くなる3年前の元和2年(1616年)ですから、15年〜18年間その存在が無かったことになります。一方の徳昌寺は上杉家会津120万石移封に際し、豊臣秀吉から直々に直江兼続公が米沢30万石を拝領したことを受け、会津を経由せずに与板から真っ直ぐ米沢に移されていました。法灯が絶えた寺と上杉家執政の菩提寺ですから寺院統制など問題外の話だったのです。
【話は変わりますが、直江兼続公の藩の人事は身内で固めたものでした】
上杉家の執政として米沢藩の中枢にあった直江兼続公は、上杉景勝公、直江兼続公の生誕地である上田庄出身の「上田衆(五十騎衆)」と直江家の居城があった与板出身の「与板衆」の言わば身内で重臣を固めました。これは上杉謙信公直参の家臣団「国衆(侍組)」にとってこの上ない屈辱であり「反直江」の感情を募らせることになりました。
【お船の方様が亡くなると「反直江」の家臣団の感情は一気に爆発】
直江兼続公、上杉景勝公に続いてお船の方様が亡くなると「反直江派」は、藩の中枢から上田衆と与板衆の重臣達を追い出し権力を掌握します。更に30万石の小藩に転落したこと、直江状のせいで今も幕府の機嫌を害していることは全て直江兼続公の失政が招いた結果だとして、死後であっても厳しい処分を課すべきとの意見が大勢を占めるようになって行きました。
【そして寺院統制の話と処分の話が結びつきます】
「反直江派」は林泉寺を使って直江兼続公夫妻が埋葬された直江家菩提寺徳昌寺を攻撃し始めました。寺院統制を主張し林泉寺の指揮下に入ることを求めたのです。徳昌寺はこれに応じず藩に仲裁を訴え出ましたが、すでに藩の中枢に後ろ盾は無く、最後は林泉寺によって寺は打ち壊されてしまいました。敗れた徳昌寺は与板に逃げ帰り直江兼続公夫妻の墓はそのまま残されてしまいました。
【直江兼続公の家臣団「与板衆」が動き始めます】
この結末に「与板衆」は直江兼続公夫妻の墓を城下の真福寺(しんぷくじ)移そうとしました。ところが「反直江派」はこれさえも良しとはしませんでした。直江兼続公夫妻の墓と霊牌を取り上げ林泉寺に移してしまったのです。その上で「与板衆」には林泉寺の檀家となるよう迫りました。しかし「与板衆」はこれに応じず、かと言って墓と霊牌を力で取り返すことも出来ず、今度は「与板衆」が屈辱を味わうことになってしまったのです。
【与板衆のみで細々と行われた直江兼続公夫妻の法要】
「与板衆」は直江兼続公の生母方の菩提寺である信濃泉衆の「東源寺」(とうげんじ)を招き米沢城下に寺を創建しました。そしてこの寺で直江兼続公夫妻の菩提を弔い細々と法要を執り行っていました。藩の重臣の法要は藩主催で執り行うのが慣例であったこの時代、直江兼続公夫妻にこの慣例が適用されることはなく林泉寺で法要が執り行われることは一切ありませんでした。
【戒名に院殿号が付いたのは没後100年後、名誉は上杉鷹山公が回復されました】
お武家様の戒名には必ず院殿号が頭に付くものですが、当初直江兼続公の戒名にはそれがありませんでした。付いたのはお亡くなりになられてから100年後でした。「英貔院殿達三全智居士」が直江兼続公の戒名です。またその約50年後、第九代米沢藩主となられた上杉鷹山公は、直江兼続公の名誉を回復し、直江家断絶後に途絶えていた法要を藩として執り行い、その功績の継承と発展にお力を注がれました。それ以降の歴代藩主もその心を受け継ぎ、直江兼続公の菩提を手厚く弔われました。
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