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「あいさあいべ!」とは「会いに行きましょう!」という意味の米沢弁です |
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兼続公の生涯 |
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慶長15年 1610年 51歳 〜 寛永14年 1637年 没後18年 |
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慶長15 |
1610 |
51 |
兼続>直江兼続公、米沢城下の各所で治水工事、水路工事を継続して行う。 |
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治水によって広がった土地に細かく水路を巡らせ町割りの基準とする。 |
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慶長16 |
1611 |
52 |
兼続>直江兼続公、直江勝吉(老中本多正信の次男政重)との養子縁組を解消。 |
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政重の実父である老中本多正信の意向との説。幕府が豊臣征伐の準備か。 |
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養子縁組解消後、政重は直江兼続公の教えを「治国家根元」と題し刊行。 |
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日本>徳川家康、豊臣秀頼と二条城で会見する |
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米沢>甘糟景継、米沢にて亡くなる。直江兼続公と同じ越後国上田庄出身者であった。 |
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米沢城下の春日山林泉寺に埋葬されました。 |
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慶長17 |
1612 |
53 |
兼続>直江兼続公、本多政重(直江勝吉)から以前仕官していた前田家に帰参の報。 |
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上杉謙信公祠堂完成 |
以後、本多政重は歴代の前田家主君に尽しその一生を終えています。 |
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米沢>米沢城本丸東南に設けられた高台に 「上杉謙信公の祠堂」 が完成。 |
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祠堂を守るため本丸の南側に法音寺を筆頭に11寺が配置される。 |
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祠堂の建物は、明治6年に米沢城が取り壊されるまでこの地に建つ。 |
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建物は城下の長命寺に移設。遺骸は上杉家御廟所に移された。 |
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米沢>前田慶次(前田利家の甥)、米沢の堂森にて亡くなる。 |
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米沢城下の一花院に埋葬されました。一花院は幕末に廃寺となり前田慶次の |
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前田慶次没 |
墓石は現在確認出来ない。庵近くの堂森善光寺境内に供養塔が建っている。 |
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慶長18 |
1613 |
54 |
米沢>慶長6年(1601年)の上杉景勝公米沢入から12年、「兼続公の米沢」が完成。 |
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兼続公の米沢完成 |
米沢城の大改修から町割りまで、ここに「上杉の城下町 米沢」が誕生した。 |
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日本>幕府から全国に 「 キリシタン禁止令 」 が発令される。 |
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慶長19 |
1614 |
55 |
景勝>上杉景勝公、幕府から越後国高田城(新潟県上越市)築城を命じられる。 |
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兼続>直江兼続公、高田城築城に際し実に16年ぶりに故郷越後の地を踏む。 |
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兼続>6月、直江兼続公、急ぎ上越高田から米沢に帰城。 |
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日本>10月1日、徳川家康、諸大名に豊臣征伐のため大坂出陣を命じる。 |
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景勝>10月16日、上杉景勝公、5千人の兵を率いて大坂に向け米沢を出発。 |
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大坂冬の陣 |
日本>11月19日、「大坂冬の陣」の火蓋が切られる。 |
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景勝>上杉景勝公、大坂城の東側区域に布陣。「上杉の雷筒」が威力を発揮する。 |
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兼続>直江兼続公の長男景明、上杉軍の後備えとして参戦。 |
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兼続>直江兼続公のかつての婿養子本多政重、前田家家臣として大坂冬の陣に参戦。 |
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この時、本多政重は豊臣方の武将 真田幸村と一戦交えている。 |
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日本>12月20日、大坂城和議(内堀以外の堀を全て埋める) |
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慶長20 |
1615 |
56 |
兼続>直江兼続公、体調を崩した長男景明とともに京都伏見に留まる。 |
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この時、景明の身体は結核に侵され床に伏す日が続いていた。 |
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景勝>2月29日、上杉景勝公、米沢に帰城する。 |
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大坂夏の陣 |
日本>4月、徳川家康、再び諸大名に大坂出陣を命じる。 |
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景勝>4月10日、上杉景勝公、米沢城を出発。再び京都大坂に向かう。 |
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日本>4月、「大坂夏の陣」開戦。 |
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日本>5月8日、大坂城落城。城内で豊臣秀頼(23歳)、淀殿(49歳)が自害。 |
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これにより豊臣秀吉が築いた豊臣家は滅亡した。 |
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景勝>6月、上杉景勝公、直江兼続公、直江景明が米沢に帰城。 |
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兼続>直江兼続公、長男景明に幕府から医師の派遣を受ける。 |
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兼続>7月12日、直江兼続公、長男景明を結核にて亡くす。直江景明享年22歳。 |
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日本>7月、徳川家康、「武家諸法度」「公家諸法度」を発布する。 |
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慶長20 |
1615 |
56 |
日本>7月13日、年号が元和と改元される。 |
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元和 2 |
1616 |
57 |
日本>徳川家康、体調を崩す(消化器疾患)。 |
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景勝>3月7日、上杉景勝公、直江兼続公、徳川家康を見舞う。 |
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徳川家康没 |
日本>4月17日、徳川家康、病にて亡くなる。享年74歳。 |
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景勝>上杉景勝公、領内全土に気の緩み無く備えるように法令を出し戒める。 |
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兼続>直江兼続公、全家臣に軍備の修繕と整備を早急に行うように指示を出す。 |
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元和 4 |
1618 |
59 |
兼続>直江兼続公、米沢に禅林寺(現在の法泉寺)を創建し「禅林文庫」を創設する。 |
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禅林寺創建 |
足利学校に学んだ僧「九山」を開祖として迎え、禅林文庫には直江兼続公の |
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禅林文庫創設 |
蔵書と併せて九山の蔵書も納められました。これらの蔵書は後に上杉鷹山公の |
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藩政改革の礎となり藩校興譲館から米沢市立図書館に所蔵され「米沢善本」 |
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の一部を成しています。 |
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法泉寺の境内は大正6年と8年の米沢大火後に道を通したため二分されました |
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が、庭園は林泉寺と上杉記念館とともに 「 米沢三名園 」に数えられています。 |
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元和 5 |
1619 |
60 |
景勝>3月9日、上杉景勝公、直江兼続公、徳川秀忠の命で京都に向け米沢を出発。 |
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景勝>5月8日、上杉景勝公、直江兼続公、京都に入る。兼続公体調を崩す。 |
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元和 5年(1619年)12月19日 直江兼続公 江戸鱗屋敷にて逝去 享年60歳 |
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遺骨は米沢の徳昌寺と高野山清淨心院に分骨埋葬されました。 |
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後に米沢の徳昌寺は与板(新潟県長岡市与板)に戻ったため春日山林泉寺に改葬。 |
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尚、高野山では現在直江兼続公の墓石が見当たりません。 |
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元和 9 |
1623 |
日本>徳川家光、江戸幕府第三代将軍となる。 |
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元和 9年(1623年) 3月20日 上杉景勝公 米沢城にて逝去 享年69歳 |
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遺骨は高野山清淨心院に、遺灰と衣冠は米沢の上杉家御廟所に埋葬されました。 |
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米沢>上杉景勝公の嫡男、定勝が上杉家の家督を継ぐ。 |
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元和10 |
1624 |
日本>元和10年2月30日、年号が寛永と改元される。 |
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寛永 2 |
1625 |
定勝>上杉定勝公、直江兼続公未亡人お船の方に3千石を与える。(北政所と春日局が3千石) |
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お船の方>「直江版文選」を再版。(発見はされておらず記録に残るのみ) |
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寛永 5 |
1628 |
定勝>上杉定勝公、米沢の北山原にてキリスト教信者54信者を処刑。 |
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上杉景勝公は、家臣の甘糟右衛門をはじめ領内信者の存在を認知して |
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いましたが、幕府へは「領内にキリシタン一名もなし」と報告していました。 |
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幕府のキリシタン禁止令が強化され、米沢でも多くの信者が命を落としました。 |
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寛永14 |
1637 |
直江兼続公没後18年。 |
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寛永14年(1637年) 1月 4日 お船の方 江戸鱗屋敷にて逝去 享年81歳 |
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遺骨は米沢の徳昌寺に埋葬されました。 |
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後に直江兼続公と一緒に春日山林泉寺へ改葬されています。 |
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上杉家御廟所 上杉景勝公 廟 |
春日山林泉寺 直江兼続公(左) お船の方(右) 墓所 |
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