上杉謙信公が軍神として崇めた毘沙門天の「毘」の一字を軍旗として掲げた「刀八毘沙門の旗」

上杉時代館の「直江兼続公」講座

上杉軍団総攻撃の旗印「懸かり乱れの龍の旗」

兼続公さ愛さ愛べ!

「あいさあいべ!」とは「会いに行きましょう!」という意味の米沢弁です。

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兼続公の生涯

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兼続公の生涯

天文17年 1548年 誕 生  〜  天正9年 1581年 22歳

兼続公の米沢

天文17

1548

 

米沢>伊達輝宗(政宗の祖父)米沢城に入城し本拠地とする。

米沢ガイド

弘治元

1555

 

景勝>長尾政景と仙桃院(上杉謙信公の実姉)との間に誕生。「喜平次」と命名。

米沢のお祭り

永禄 3

1560

1

兼続>越後国上田庄坂戸城下で樋口惣右衛門兼豊の長男として誕生。「与六」と命名。

米沢の史跡

兼続公誕生

 

日本>織田信長、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取る。

ゆかりの地探訪

 

 

謙信>長尾景虎、関東管領上杉憲政とともに北条氏康を攻める。

永禄 4

1561

2

謙信>長尾景虎、小田原撤退。鎌倉鶴岡八幡宮にて関東管領上杉憲政から役目と

メール

 

 

家督を譲られ「上杉政虎」と改名する。

川中島の戦い

 

謙信>9月10日、上杉政虎と武田信玄「第四回川中島の戦い」

 

 

謙信>上杉政虎、室町幕府13代将軍足利輝義から「輝」を贈られ「上杉輝虎」と改名。

永禄 7

1564

5

越後>長尾政景(上杉景勝公の父)、宇佐美定満と野尻湖で舟遊び中に溺れて亡くなる。

 

 

長尾政景享年39歳。

 

 

謙信>上杉輝虎、仙桃院(上杉謙信公の実姉)と喜平次(上杉景勝公)を引き取る。

近 習

 

兼続>樋口与六、喜平次(上杉景勝公)の近習(小姓)に命じられる。

 

 

謙信>上杉輝虎、武田信玄「第五回川中島の戦い」。輝虎敗れ川中島が武田領となる。

永禄10

1567

8

米沢>9月5日、米沢城にて伊達政宗が生まれる。

永禄11

1568

9

謙信>上杉輝虎、武田信玄の窮地を知り塩を贈ったと言われる。

永禄13

1570

11

日本>4月23日、年号が元亀と改元される。

元亀元

1570

11

謙信>上杉輝虎、北条氏康と同盟を結び、氏康の七男三郎を養子とし「上杉景虎」とする。

 

 

正室は華渓院(上杉景勝公の妹)

上杉謙信公

 

謙信>12月15日、上杉輝虎から「上杉謙信」と改名する。

元亀 2

1571

12

日本>北条氏康、病気で亡くなる。享年57歳。

 

 

謙信>上杉謙信公、北条家との同盟を決裂する。

 

 

日本>織田信長、比叡山を焼き討ちし3000人を殺害する。

元亀 4

1573

14

日本>4月12日、武田信玄、病気で亡くなる。享年53歳。

 

 

日本>織田信長、室町幕府15代将軍足利義昭を追放する。室町幕府が滅亡する。

元亀 4

1573

14

日本>7月28日、年号が天正と改元される。

天正 2

1574

15

謙信>上杉謙信公、織田信長から「洛中洛外図屏風」を贈られる。

 

 

狩野永徳筆で現在「国宝」として米沢市上杉博物館に所蔵されている。

天正 4

1576

17

景勝>正月、上杉景勝公、正式に上杉謙信公の養子となる。

春日山城入城

 

兼続>樋口与六、上杉景勝公とともに春日山城(新潟県上越市)に入る。

天正 5

1577

18

直江家>直江景綱(実綱)が病気で亡くなる。享年69歳。

 

 

婿養子の長尾景孝が直江信綱として家督を継ぐ。

天正 6

1578

19

謙信>3月9日、上杉謙信公、関東出兵の準備中に春日山城内の便所で突然倒れ

 

 

意識不明の重体となる。

 

 

兼続>樋口与六、上杉景勝公を春日山城本丸の上杉謙信公の病床につかせる。

上杉謙信公没

 

謙信>3月13日、上杉謙信公、春日山城内にて脳卒中で亡くなる。享年49歳。

 

死因との因果関係は不明ですが酒豪であった上に塩辛い物(特に梅干し)が

 

好物であったと伝えられています。

 

景勝>上杉景勝公、春日山城の門を閉ざし上杉景虎(北条氏康の七男三郎)が

 

本丸より中の城内に入ることを禁じ、武器蔵、火器蔵、金蔵(黄金2449枚、

 

今のお金に換算すると約85億円相当)を支配する。

 

景虎>上杉景虎、元関東管領上杉憲政に訴え支持を得る。武力で春日山城に入城

 

しようとするが失敗。逆に上杉景勝公に攻め立てられ、上杉憲政の居城がある

 

御館(新潟県上越市)に逃れる。「御館の乱」

 

 

現存する古文書の中に初めて直江兼続の名前が登場

 

 

景勝>上杉景勝、武田勝頼と越甲同盟を結ぶ。

天正 7

1579

20

憲政>3月17日、上杉憲政、上杉景勝公側に攻められ命乞いするが討ち取られる。

御館の乱

 

景虎>3月24日、上杉景虎、鮫ヶ尾城で自害する。享年28歳。

 

 

景勝>上杉景勝公、上杉家の家督を継ぎ春日山城主となる。

 

 

景勝>10月20日、上杉景勝公、武田信玄の娘で武田勝頼の妹の菊姫(大儀院)と結婚。

天正 9

1581

22

直江家>9月1日、直江信綱、御館の乱の恩賞に不満を持った毛利秀広により

 

 

山崎秀仙とともに春日山城内で殺害される。

直江兼続を襲名

 

兼続>10月、樋口与六兼続、直江家の婿養子となりお船の方と結婚する。

 

 

直江家の家督を相続。「直江与六兼続」とし与板(新潟県長岡市)城主となる。

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