上杉謙信公が軍神として崇めた毘沙門天の「毘」の一字を軍旗として掲げた「刀八毘沙門の旗」

上杉時代館の「直江兼続公」講座

上杉軍団総攻撃の旗印「懸かり乱れの龍の旗」

兼続公さ愛さ愛べ!

「あいさあいべ!」とは「会いに行きましょう!」という意味の米沢弁です。

「あいさあいべ」とは「会いに行きましょう」という意味の米沢弁です


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兼続公の生涯

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年表

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兼続公の生涯

慶長5年 1600年 41歳  〜  慶長6年 1601年 42歳

兼続公の米沢

慶長 5

1600

41

日本>7月23日、徳川秀忠、大田原(栃木県)に着陣する。

米沢ガイド

日本>7月24日、徳川家康、小山(栃木県)に着陣する。

米沢のお祭り

 

日本>伊達政宗、上杉家の家臣甘糟景継の居城白石城を攻撃し奪う。

米沢の史跡

日本>7月25日、徳川家康、大坂の石田三成の挙兵を知る。

ゆかりの地探訪

家康の大旋回

一転し大軍とともに西へと向かう。「家康の大旋回」

兼続>直江兼続公、徳川家康の旋回を知り上杉景勝公に家康追撃を提案する。

メール

景勝>上杉景勝公、直江兼続公の家康追撃の進言に応じず。

日本>徳川家康、上杉の追撃に備え1ヶ月間江戸で上杉の様子を見定める。

景勝>9月3日、上杉景勝公、伊達政宗からの和議の申し入れを了承する。

伊達政宗は徳川家康の西進により鉾先が最上、伊達に向くことを恐れた。

イラスト上杉景勝公

日本>最上義光、仙北(秋田県)から上杉攻撃に賛同の武将が山形城に集結。

「家康が殺された」との噂が最上領内に流れ諸将は全て帰郷。

景勝>上杉景勝公、山形の最上義光に対し9月7日までに米沢城に出向くように促す。

最上義光はこれに全く応じる様子を見せず。

兼続>直江兼続公、最上義光討伐のために米沢城に兵を整える。

景勝>上杉景勝公、米沢城留守居役に兼続公の実父樋口惣右衛門兼豊を任命。

最上義光討伐出陣

景勝>9月7日、上杉景勝公、明朝8日の最上義光討伐出陣を決定。

兼続>9月8日、直江兼続公、前田慶次ら上杉軍が最上義光討伐のため米沢城を出陣。

「もう一つの関ヶ原」と言われる「最上の役」が開戦。

兼続>9月13日、直江兼続公、長井白鷹から進軍し最上の畑谷城(山辺町)落とす。

日本>9月15日、東軍徳川家康、西軍石田三成が激突。

関ヶ原の戦い

「関ヶ原の戦い」は西軍が敗戦し石田三成は逃亡する。

兼続>直江兼続公、山形の西部、長谷堂に侵攻する。

イラスト直江兼続公(普賢菩薩)

日本>9月21日、石田三成捕まる。

日本>9月27日、徳川家康、大坂城に帰城。豊臣秀頼に戦勝報告。

兼続>9月29日、直江兼続公、関が原で西軍の石田三成が敗れたことを知る。

直江兼続公の直属家臣団「与板衆」が関ヶ原からいち早くその報を届けた。

最上義光に気付かれぬように米沢への撤退を開始。しんがりは前田慶次。

日本>9月30日、最上義光、西軍敗戦を知り山形城から出陣。長谷堂を目指す。

イラスト前田慶次

兼続>9月30日、上杉軍本隊、長谷堂のはるか南西の白鷹まで撤退を完了。

直江兼続公率いる上杉軍の最上陣地からの撤退はその見事さ

旧日本軍参謀本部の「日本戦史」に取り上げられ称賛

山形の「最上記」は「直江は古今無双の兵(つわもの)なり」と記載

日本>10月1日、石田三成、京都六条河原で斬首処刑。享年41歳。

景勝>10月20日、上杉景勝公、会津に家臣を集め軍議。徳川家康への和議を決議。

慶長 6

1601

42

景勝>6月、上杉景勝公、徳川家康からの大坂への出頭命令が届く。

景勝>7月、上杉景勝公、直江兼続公とともに会津を出発。

景勝>7月24日、上杉景勝公、直江兼続公、京都伏見の上杉屋敷に到着。

上杉景勝公 正室菊姫(大儀院)、直江兼続公 正室お船の方と再会。

景勝>7月26日、上杉景勝公、直江兼続公、大坂城に入り豊臣秀頼と徳川家康に面会。

徳川家康の重臣本多正信による尋問。処分は後日言い渡し。

景勝>8月17日、上杉景勝公、直江兼続公、大坂城に入る。家康から処分言い渡し。

米沢三十万石減封

会津諸領は没収、領地は米沢三十万石のみの減封とする

藩主上杉景勝、家老直江兼続についてはお構いなしとする

兼続>10月3日、直江兼続公、豊臣秀頼と淀殿に帰国の挨拶。

兼続>10月、直江兼続公、上杉景勝公より先に米沢に向けて京都を出発。

景勝>11月、上杉景勝公、正室菊姫(大儀院)を京都に残し、米沢に向けて出発。

兼続>直江兼続公 正室お船の方、上杉景勝公に伴い米沢に向け京都を出発。

この時、同行の前田慶次が京都から米沢までの道中を日記として綴っている。

「前田慶次道中日記」(米沢市立図書館所蔵)→出版されています

景勝公 米沢入城

景勝>11月28日、上杉景勝公、米沢城に入城。

兼続>直江兼続公、正室お船の方と再会。

この冬の米沢は降雪と寒さ、住居や食糧不足と厳しい冬となりました。

当時の米沢の様子を記した「邑鑑」(むらかがみ)には侍屋敷を除き戸数が

803戸、人口は6037人との記述が見られます。尚、中下級武士とその家族

約3万人は、翌年の春に会津から米沢入りしています

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