上杉謙信公が軍神として崇めた毘沙門天の「毘」の一字を軍旗として掲げた「刀八毘沙門の旗」

上杉時代館の「直江兼続公」講座

上杉軍団総攻撃の旗印「懸かり乱れの龍の旗」

兼続公さ愛さ愛べ!

「あいさあいべ!」とは「会いに行きましょう!」という意味の米沢弁です。

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兼続公の生涯

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兼続公の生涯

天正10年 1582年 23歳  〜  文禄3年 1594年 35歳

兼続公の米沢

天正10

1582

23

景勝>上杉景勝公、直江与六兼続を上杉家の執政に任命する。

米沢ガイド

執政に就任

日本>3月11日、武田勝頼、自害して亡くなる。享年37歳。

米沢のお祭り

武田家は天目山の戦いで織田信長に敗れ滅亡した。

米沢の史跡

 

日本>織田信長、上杉家に対する戦略を強める。

ゆかりの地探訪

本能寺の変

日本>6月2日、織田信長、本能寺で明智光秀の奇襲に遭い自害。享年49歳。

織田信長

景勝>上杉景勝公、織田信長軍に包囲された魚津城主寺島六蔵らに激励や和睦の

メール

指示の手紙を出していたが、寺島らは6月3日、城内で自害してしまい家臣を失う。

日本>6月13日、明智光秀、土民に討たれて亡くなる。享年55歳。京都での政務は僅か

6月10日〜12日までの3日間のみだった。世に言う「三日天下」

景勝>上杉景勝公、織田信長の攻めを免れる。

寺島六蔵らの判断が今しばらく先であれば悲劇は避けられた。

景勝>上杉景勝公、正室菊姫の義弟で武田信玄の六男信清を3300石で家臣として

召抱える。武田信清は以後上杉家の家臣として仕え寛永19年1642年、83歳で

その生涯を米沢で閉じる。米沢武田家は幕末まで高家衆筆頭として仕えた。

景勝>7月、上杉景勝公、北条氏直と川中島にて戦う。

兼続>7月16日早朝、直江兼続公、北条氏直に奇襲攻撃をかける。

景勝>8月、上杉景勝公、北条氏直に内通していた海津城主高坂源五郎の首を斬り

北条氏直に送りつける。

景勝>上杉景勝公、北条氏直軍の撤退により川中島の四郡を上杉家の領地とする。

天正12

1584

25

景勝>上杉景勝公、直江兼続公の実父 樋口惣右衛門兼豊を

直峯城(新潟県上越市安塚)主に任命する。兼豊は伊予守を名乗る。

天正13

1585

26

景勝>上杉景勝公、豊臣秀吉の命で越中国佐々成政を攻める。

佐々成政の処分を終えた豊臣秀吉、石田三成と落水城(勝山城)で面会。

豊臣秀吉との出会い

      直江兼続公も同席(正史は無い)

米沢>伊達政宗、会津侵攻を目的に大峠(山形県米沢市 ― 福島県喜多方市)を開く。

天正14

1586

27

景勝>5月、上杉景勝公、菊姫(大儀院)とともに初めて京都に入る。(上洛)

兼続>5月、直江兼続公もお船の方とともに京都に入る。

景勝>6月16日、上杉景勝公、直江兼続公、大坂城にて関白豊臣秀吉と面会。

天正15

1587

28

景勝>上杉景勝公、反逆者新発田重家征伐に出陣。

10月25日、新発田城(新潟県新発田市)が落城する。

米沢>伊達政宗、舘山に新城の築城を開始する。

天正16

1588

29

景勝>4月、上杉景勝公、直江兼続公、再び京都に入る。景勝公は「従三位・参議」、

兼続公は「従五位下」を授かる。

兼続>直江兼続公、朝廷から「山城守」を授かる。(豊臣秀吉が推薦)

南化玄興との出会い

兼続>京都五山相国寺の僧「西笑承兌」と妙心寺の僧「南化玄興」と会う。

南化玄興から「古文真宝後集抄」20巻を書写する。

米沢>伊達政宗、米沢の舘山の築城工事を継続。

天正17

1589

30

米沢>伊達政宗、小野川温泉にて骨折の湯治をする。

景勝>上杉景勝公、佐渡の本間高季と本間高統を討ち取り佐渡を平定する。

日本>豊臣秀吉、小田原の北条氏政に宣戦布告する。

米沢>伊達政宗、北条氏政攻めに出陣のため舘山の築城工事を中断する。

天正18

1590

31

景勝>3月、上杉景勝公、豊臣秀吉の命で北条氏政攻めに出陣する。

日本>7月6日、小田原城開城。北条氏政は切腹し亡くなる。

奥州検地

日本>7月17日、豊臣秀吉、小田原を出発。

奥州仕置

8月12日まで「奥州仕置・奥州検地(太閤検地)を行い天下を統一。

豊臣秀吉

景勝>上杉景勝公、出羽庄内と仙北(秋田)の検地を担当する。

日本>徳川家康、豊臣秀吉の命で関東に移封される。

米沢>伊達政宗、豊臣秀吉の命で仙台岩出山に移封される。

これにより舘山(米沢市西部)の築城は中止。完成部分は全て破壊。

米沢>蒲生氏郷、伊達政宗に代わり米沢城に入城する。

天正19

1591

32

日本>千利休、豊臣秀吉の命で大阪堺から追放される。

景勝>上杉景勝公、豊臣秀吉の命を受け直江兼続公に京都千利休屋敷を包囲させる。

日本>2月28日、千利休、豊臣秀吉から切腹を申しつけられ亡くなる。

日本>豊臣秀吉、秀次(秀吉の姉の子)を養子とし関白職を譲る。

天正20

1592

33

日本>3月、豊臣秀吉、朝鮮への出兵を決定する。「文禄の役」

朝鮮出兵

景勝>上杉景勝公、直江兼続公、豊臣秀吉の命で朝鮮に出陣する。

兼続>直江兼続公、肥前名護屋(佐賀県東松浦郡鎮西町)にて「聖済総録」

200巻を書写する。→「済世救方300巻」説は根拠のない誤説である。

天正20

1592

33

日本>12月8日、年号が文禄と改元される。

文禄 2

1593

34

景勝>6月、上杉景勝公、豊臣秀吉の命で熊川城を修築する。

日本>8月3日、豊臣秀吉の側室淀殿、拾丸(後の豊臣秀頼)を出産する。

景勝>9月、上杉景勝公、直江兼続公、朝鮮から帰国する。

文禄 3

1594

35

景勝>3月、上杉景勝公、京都に入る。

豊臣秀吉から伏見城の堀の普請を命じられる。

兼続>10月、直江兼続公、京都聚楽第にて豊臣秀吉から銀300枚を授かる。

(この時代は、金よりも銀の方が価値が上でした)

兼続>直江兼続公正室、お船の方が長男景明を出産する。

兼続>直江兼続公、京都五山の僧 南化玄興から「宋版史記」90冊を贈られる。

     「国宝」に指定され、現在千葉県の国立歴史民俗博物館に所蔵されている。

→朝鮮からの持ち帰り説は誤説である。更に南化玄興から贈られたとする説も

直江兼続公が入手した時期についても、その事実を示す史料は何も残って

おらず正史は不明である。(一応仮説としてここに掲載しています)

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