上杉謙信公が軍神として崇めた毘沙門天の「毘」の一字を軍旗として掲げた「刀八毘沙門の旗」

上杉時代館の「直江兼続公」講座

上杉軍団総攻撃の旗印「懸かり乱れの龍の旗」

兼続公さ愛さ愛べ!

「あいさあいべ!」とは「会いに行きましょう!」という意味の米沢弁です。

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兼続公の生涯

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年表

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文 献

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兼続公の生涯

文禄4年 1595年 36歳  〜  慶長5年 1600年 41歳

兼続公の米沢

文禄 4

1595

36

兼続>直江兼続公、京都妙心寺の僧 南化玄興から「前漢書」12巻を贈られる。

米沢ガイド

「宋版史記」「前漢書」「後漢書」を「宋版三史」と呼びます。

米沢のお祭り

景勝公 五大老

景勝>上杉景勝公、小早川隆景の死去により豊臣政権の五大老となる。

米沢の史跡

 

他の大老は徳川家康、前田利家、宇喜多秀家、毛利輝元。

ゆかりの地探訪

日本>7月8日、豊臣秀吉、秀次(秀吉の姉の子)を高野山に追放する「豊臣秀次失脚」。

7月15日、秀次切腹。享年28歳。一族全員処刑。秀次の側室として嫁いでいた

メール

最上義光の娘「駒姫」(伊満の方)も義光の必死の命乞いにも関わらず処刑された。享年15歳。

文禄 5

1596

37

日本>7月、鳥羽伏見を中心に大地震発生。建物が倒壊し死者が数万人に達する。

文禄 5

1596

37

日本>10月27日、年号が慶長と改元される。

慶長 2

1597

38

日本>1月、豊臣秀吉、宇喜多秀家を総大将として14万7千の兵で再び朝鮮に出兵。 「慶長の役」

景勝>上杉景勝公、豊臣秀吉の命を受け直江兼続公に伏見船入総奉行を務めさせる。

震災復興急務ため二人は京都に残り朝鮮に出兵はしなかった。

慶長 3

1598

39

米沢>蒲生秀行(氏郷の子)、米沢から宇都宮に移封。

会津120万石移封

景勝>上杉景勝公、豊臣秀吉の命で越後から「会津120万石」に国替えとなる。

 

兼続>直江兼続公、120万石の内米沢30万石を拝領。

当時の米沢は人口も少なく土地もやせていて実質石高は6万4千石しかなかった。

米沢城は、120万石領内に28ある出城の一つではあったが、北に最上義光と

伊達政宗がおり常に戦いの緊張を強いられる厳しい土地。

直江兼続公は、上杉家の執政として会津で職務に追われた他、京都での役職も

あって殆んど米沢には国入りしていない。

景勝>上杉景勝公、前田家を破門されていた利家の甥 前田慶次を召抱える。

前田慶次は直江兼続公の人柄に惚れ込み、生涯を上杉家と米沢に捧げた。

景勝>3月、上杉景勝公、直江兼続公、新領地会津に向け京都伏見を出発する。

出発前豊臣秀吉に挨拶。(これが秀吉との最後の面会となった)

豊臣秀吉 没

日本>8月18日、豊臣秀吉、京都伏見城で亡くなる。享年62歳。

秀吉の遺命により朝鮮の宇喜多秀家は日本に引き上げる。

景勝>9月、上杉景勝公、直江兼続公、京都に入る。秀頼、淀殿、五大老と面会。

慶長 4

1599

40

日本>1月10日、豊臣秀頼、淀殿、大坂城に移る。

日本>3月3日、五大老のひとり前田利家が亡くなる。享年62歳。

日本>3月10日、五大老徳川家康、石田三成に佐和山城隠居を命じ失脚させる。

兼続>直江兼続公、京都妙心寺の僧 南化玄興から「文鑑」12巻を書写する。

贈られたとする説は誤説である。筆跡が直江兼続公のものと確認された。

景勝>8月10日、上杉景勝公、再び会津に向け京都を出発。8月22日、会津に到着。

日本>9月9日、五大老の徳川家康が、北の政所(高台院)の意向であるとして

入城を正当化し大坂城西の丸に入る。

慶長 5

1600

41

景勝>正月、上杉景勝公の代理として家臣の藤田信吉が年賀のため大坂城に登城。

豊臣秀頼と五大老徳川家康に謁見し年賀の挨拶。

日本>徳川家康の重臣本多正信、年賀に訪れた藤田信吉を丁重にもてなし会津の動きを探る。

更に越後、出羽、羽後の大名からも情報収集活動を行う。

会津神指城 築城

景勝>2月、上杉景勝公、会津に新城(神指城)を計画。築城工事を始める。

兼続>2月、直江兼続公、会津に出入りする七か所の街道に軍備を配置。

景勝>3月13日、上杉景勝公、軍議を兼ねた上杉謙信公の二十三回忌法要を行う。

兼続>3月13日、直江兼続公、法要に欠席した藤田信吉を裏切り者と断定。

藤田を白河口まで追うが今一歩のところで逃亡される。

日本>徳川秀忠、江戸で会津から逃亡して来た藤田信吉と面会。大坂に向かわせる。

日本>徳川家康、本多正信、大坂で藤田信吉と面会。

→藤田信吉は後に下野国西方の大名(1万5千石)になっている。

兼続>直江兼続公、直属家臣団の与板衆を大阪、京都、江戸に隠密として放つ。

兼続>4月、直江兼続公、京都五山相国寺の僧 西笑承兌からの「詰問状」を受け取る。

詰問使は徳川家康の家臣 伊那図書と河村長門の2名。書状は西笑承兌が

代筆しただけで実質は徳川家康からの手紙であった。

景勝>上杉景勝公、2名の詰問使に対し毅然とした態度を示す。

兼続>直江兼続公、詰問使を城内に留め置き、すぐに返事を認め書状を渡す。

直 江 状

この時の返書が俗に言われる「直江状」です。

「直江状」は「詰問状」で不審な動きと決めつけられたこと一つ一つについて

徳川家康

説明をした上で、逆に家康の最近の行動こそ不審極まりないと痛烈に批判し、

正義は上杉であり家康こそ悪であるとののしっています。悪の家康に上杉攻撃の

意思があるのであれば上杉は正義を守るため黙ってはいないという毅然たる

態度を示したものでした。(書状の写しとされる物が伝わっています。)

日本>5月3日、徳川家康、直江兼続公からの返書を受け取る。上杉討伐を決断。

日本>6月2日、徳川家康、諸将を集め軍議を開き上杉攻撃の時期を7月下旬と決定。

景勝>6月10日、上杉景勝公、白河口の視察を行う。

徳川家康 出陣

日本>6月18日、徳川家康、京都の伏見を出発する。

日本>7月、徳川秀忠も江戸を出発し北を目指す。

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