歴史
歴史豊かな万世を写真を交えながらお伝えします


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赤浜 山の神神社

棟札によれば、明治21年再建とある。大山祇の神を祀る。昭和37年国道13号線の工事の都合で現在地に移転する。境内にある石造物も地区内に点在してあったものを集めたものである。

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万世大路改築記念碑 −昭和12年3月−

明治32年(1899)5月15日、福島米沢間の鉄道が開通し、萬世大路を通る 人、荷馬車が少なくなり、道路は荒廃した。昭和に入り自動車が普及し、萬世大路は昭和8年から自動車道路に大改修された。4年の月日をかけて改修され栗子隧道もコンクリートトンネルとなり、東口は同じ場所で、西口が少し北側となった。この碑は東口北側に建立されたものである。裏面に、「昭和8年4月起工、同12年3月竣工。同工費878千円、内務省仙台土木出張所」と刻まれている。昭和44年8月1日万世地区明治百年記念実行委員会で新旧国道分岐点に移転した。その後平成2年開園の万世大路記念碑公園に移転した。

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栗子神社 −昭和11年10月17日−

三島通庸山形県令は、栗子隧道工事の安全を願い豊受姫尊(保食神)を祭り明治14年隧道西口山腹に檜祠堂を建立し、上杉鷹山、大久保利通を合祀した。その後萬世大路改修工事の際万世、中野村長ほかにより、昭和11年10月17日「栗子神社」碑を栗子隧道西口南側に建立した。上杉鷹山、大久保利通、三島通庸を合祀した。昭和44年8月1日万世地区明治百年記念実行委員会で新旧国道分岐点に移転した。その後平成2年開園の万世大路記念碑公園に移転した。

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明治百年記念の碑 ー昭和44年9月30日−

昭和41年5月29日栗子ハイウエーが開通すると、自動車道としてきた萬世大路も再び通行が無くなった。明治の栗子隧道に関わる記念の石造物も草木の陰になり人目につかなくなったため、万世地区明治百年記念実行委員会事業のひとつとして新旧国道の分岐点に集積することとした。作業は昭和44年8月1日2日に行い、記念碑は同年9月30日に建立した。その後平成2年開園の万世大路記念碑公園に移転した。

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御駐輦碑(川越石) −大正11年11月−

大正11年(1922)11月字川越石に建立された。この地は当時の現場事務所と監獄があった場所で、通称官宅と呼ばれていた。米沢を発進された明治天皇が2度目のご小休をされた場所である。石碑建立は、郡会議員我妻安雄の発起により、青年団事業として取り組んだ。昭和44年8月1日萬世地区明治百年記念実行委員会で新旧国道分岐点に移転した。その後平成2年開園の万世大路記念碑公園に移転した。

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明治大帝の碑(栗子前) −大正11年11月−

大正11(1922)年11月字栗子前(栗子隧道西口)に建立された。この地に行在所を設け、明治天皇をお迎えして栗子隧道の開通式を挙行した。この碑は郡会議員我妻安雄の発起により、青年団事業として取り組んだ。碑面には、「風景の壮大なるを賞志給ふ」と刻まれている。昭和44年8月1日萬世地区明治百年記念実行委員会で新旧国道分岐点に移転した。その後平成2年開園の万世大路記念碑公園に移転した。

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岩盤のレプリカ(隧道内手堀りのノミの跡)

明治14年10月3日に開通した栗子隧道の西口は崩落が激しく、中に入るのは危険であるが当時の手掘りの後が今も確認できる。岩を掘削した手彫りの後が今も確認できる。当時の鑿の跡を複写して、平成2年記念碑公園開園時に設置したもの。

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刈安 庚申堂 −元文元年(1736年)8月27日−

刈安集落の入口の国道北側の山側に立っている。延享2年(1745)の建立とされるが、現在の御堂は失火による焼失があり嘉永元年[11848]の建立とされ、昭和39年国道建設のため移転し茅葺きを鉄板屋根に変えた。石鳥居には元文元年[1736]の銘がある。

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刈安 正一位稲荷神社 −元文元年(1736年)9月9日−

刈安地区の鎮守で、お稲荷様と呼んでいる。建立沿革は建立施主面付けや木札、絵馬などに天保年間(1830年代)が多く記されている。石の鳥居には元文元年(1736)の銘がある。社殿は天保年間に再建されたものと思われる。刈安地区にも獅子踊りがあり、一部大纏などの骨組みが残っている。刈安公民館に残っている文書によると、文政11年に会津下柴から伝えられたもので、昭和16年頃まで伝わっていたとのことである。

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刈安 大宮大明神

正一位稲荷神社の右側に約1間四方の大宮大明神が祭られている。

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刈安 六地蔵

刈安山の神神社入口の左側に、約1間四方の御堂があり石地蔵が6体祀られている。

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刈安 山の神神社(東山上邑) −安永5年(1777年)2月17日−

 刈安地区の山の神様である。炭焼きを主体にしていた時期があり、山の神はもっとも信仰されていた。山の神様は女性で、女は神社に登ってはいけないことになっていた。山の頂上近くの大岩のくぼみが山の神様で、社殿はそこに立っている。戦後浮浪者が住みついており火事を出し逃げて行ったという話がある。

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刈安 小浦佐次兵衛生碑(明治の片子の村長)

刈安は明治時代片子村字刈安だった。万世大路の建設には刈安の土地を提供するなど協力したが、当時小浦村長の活躍で刈安地権者が恩恵を被ったので、感謝の碑を建立した。高さ145センチ、幅61センチ、奥行き51センチで基壇がある。

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梓山字一の沢原 山の神神社

梓山一の沢原にあり、大社梓神社が管理している。春三月一七日が祭礼日で、この日から山の神は田の神となり、秋の祭礼11月2日で、これから山に戻って山の神になる。山の神の名前は「おつぎ」と言われ、その姉「おさき」は関根の清水(すみれ荘の奥)の山の神と言われている。

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梓山 羽山神社

梓山のぶどう松茸ライン入口のT字路のある南側の羽山山頂にある。 急な羽山のふもとの鳥居から100段ほどの石段があり、つづら折りの山道を登っていく。社殿は石造りで、屋根と胴と3段の基壇を含めると258センチもあり、大きなものである。2011年3.11東北大震災で屋根と胴が倒れ、重機が使えず30人程の人力で修復資材を運搬し修復した。男子7歳でお参りしたり、13参りでお参りしたり、雨乞いをしたりする作神様でもある。

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梓山 一の関修復記念碑 −昭和17年7月25日−

この石碑は羽山橋の左岸にあり、昭和17年7月に建立された。梓川から灌漑用水として取水していた堰が、昭和16年7月24日の大洪水により川底が2メートルも下がり、 取水できなくなったので梓山桑山の協力により石堤並びに暗渠を構築した。戦時下食糧増産の貢献甚大なりとある。

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梓山字姫条 阿弥陀堂

梓山2集会所の南の通称花山入口に阿弥陀堂が建てられている。建立沿革は定かでないが、奉納木札に文化10年の文字が見える。梅津善右衛門の母貞婦なりなどが書かれている。阿弥陀如来を祀っており、4月29日に講中8戸で祭礼を行う。間口1間、奥行き1間、向拝部付き。昭和40年代に茅葺からトタン葺に変えたが、平成20年老朽化に伴い新築した。

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梓山字姫条 水神様

この石宮は、高速道路建設関連事業で梓山2上堰河川工事をした時、工事区域内にあったので2009年11月29日遷座した。同所阿弥陀堂入口右側にある。

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梓山字上条屋敷 上条稲荷

戦前は上条屋敷の講中5軒でお祭りしていた。今は我妻孫右衛門1軒のみで4月17日祀っている。創建は不詳だが、川中島合戦【1561】ころと伝えられ古い。残っている棟札で一番古いものには安永3年(1774)石鳥居奉納棟札がある。

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曹同宗 萬年山松林寺

種厳俊栽大和尚の開山となるが、年代不詳(明応5年1496か)。平成7年(1995)大和尚500回忌法要を営んだ。歴史ある寺院で末寺も保昌寺(宮城蔵王町)、桃源院(川井)、桃源院(宮城松山町)、石雲寺(宮城松山町)、福泉寺(竹井)の5ケ寺ある。桃源院は戦国武将として有名な茂庭左月の菩提寺である。創建以来4度の火災があり、近年では昭和44年堂宇および古記録を焼失している。山腹に広がる境内を地元では「高寺」という

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松林寺山門

松林寺の急な坂道を昇ると、右側に山門がある。今の参道は自動車道となっているが、昔の山門が歴史ある高寺の風格を醸し出している。

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松林寺境内入口 地蔵堂

地蔵堂は本堂の入口の登り坂起点にある。現在の御堂は道路拡張のため4メートル程移転し平成11年に建立した。子育て地蔵、水子地蔵と言われ、子育て地蔵尊を祀っている。地蔵尊の像高は70cm、台座に安永甲午(1774)と記されている。

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松林寺境内 木造釈迦如来立像

室町時代前期の作とされる釈迦如来立像は2,1メートルと人の背丈を超す大きさである。度重なる火災に住職は背負って運び出し難を逃れている。像の足元に縄が常備されている。材質は木造、漆箔、螺髪切付、白毫水晶、玉眼で寄木造りである。

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大社梓神社(拝殿)

天平神護元年(765)伊邪那岐命、伊邪那美命の二柱を勧請し梓宮となる。その後延暦二年(783)出雲大社の神霊大国主命を勧請し大社となる。梓山村は屋代郷の水源地となることから、17か村の総鎮守・護明神として広く崇敬された。明治5年に村社、同12年に郷社となる。奥の院は守護代明神として鉾山に鎮座し、毎年氏子が参拝登山する。 拝殿には天明から明治に奉納されたきれいな絵馬が10数枚掲額保存されている。

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大社梓神社(参道と鳥居)

鳥居は老朽化したため、氏子の協力を得て昭和63年10月に建て替えたものである。梓神社の祭礼は7月9日であり、夜祭は前日の8日である。村の鎮守様としてにぎわっていた戦前戦後は芝居小屋がかかったりした。獅子踊りが市指定文化財となってから上組下組が1年ごと交代で奉納踊りをしている。夜祭が平日になると人出が少ないので、9日に近い日曜日午後にあずさ祭りとして開催してから10回になる。年々地区内外の老若男女が200人以上集まり、祭りを盛り上げている。

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稲荷神社(羽貫田稲荷)

享保元年(1716)3月、子孫繁栄、五穀豊穣を勧請し稲荷山に創建された。東北中央道建設にかかわり平成15年10月現在地(並柳)に遷座再建した。

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梓山入会山碑

この碑は元木場原にあったものを、平成15年現在地の織匠北側に移転した。梓山桑山堂森金谷川井竹井木和田上新田中田宮井の旧10か村の入会山553町3反について大正9年に解散の政令が出た。分配などで紛糾したが、梓山配分の山林のうち鉾沢は梓神社に奉納し、ほかは梓山村に寄付する。ただし立木は地元梓山の114名に特売された。土地の広い狭いで紛糾するのでなく、自ら戒めて、節約し懸命に働き、子供を教育すれば必ず大きな福利がある。(伊佐早謙撰)

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梓山 熊野神社

梓山の中道と言われる高寺に向かう道の後藤和啓宅の北側にある。祭礼は4月19日で幟を立て、隣接する行屋で直会をする。この行屋は別の所にあったものを移築した。ご利益は家内安全と五穀豊穣とされる。

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梓山 熊野神社のお行屋

お行屋は三山(羽黒山、月山、湯殿山)信仰で精進潔斎するところで、集落単位または個人が所有していた。男子15歳になると成人儀礼として三山詣りをした。明治5年神社仏閣への女人禁制が廃止されても、三山には登れない厳しい山であった。それだけ男子には厳しい精進が要求された。精進生活は、日中は田畑で働き、食事と夜は行屋で過ごした。最初は3週間、2度目は1週間などである。今はほとんどなくなってしまったがこの行屋は神社祭礼に使用している。(近くから移築したもの)

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梓山 窪の石造物郡

この場所は旧道の辻にあたり、人々の往来でにぎわう場所であった。湯殿山、馬頭観音、三十三観音巡礼碑、六地蔵など数基が建っている。

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梓山 窪の豊年祭碑 −天明3年−

この場所にめずらしい豊年祭と刻された石碑がある。天明三年(1783)の建立で、獅子踊り三十一名、念仏踊り五十四名と左右に彫られている。当時天明の飢饉が東北を襲っていて、歌舞音曲が禁止されていた。獅子踊りもこの年で途絶えていたことが分かる貴重な資料である。

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梓山 窪の辻馬頭観音

石造の御宮で高さ132cm幅60pの大きな馬頭観音である。平成19年4月に基礎が破損したため修復したときお宮に収まっている馬頭観音像と板札を確認することができた。 板札には明和3年(1766)の建立とあり247年前のものと判明した。また明和9年(1772)9月9日の板碑には「三つ子渕において死亡」と記されている。おそらく馬が山仕事でこの渕に入り死んだ供養と思われる。梓山入りの三つ子渕は人も馬も入って亡くなったといわれている。

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真言宗智山派 医王山法将寺

梓山安部商店から南に入った場所にある。大同2年(807)看寿法印開基とされるが、明治9年5月9日火災に会い全焼し旧記一切焼失したため由緒不明となる。同寺4世宥孝和尚の口伝によると、明治維新の宗教改革により、米沢城二の丸医王堂に閑居していた宥泰法印が弟子5人を連れて法将寺に入ったとされる。庫裡は明治9年再建され、その後本堂も再建された。近年、老朽化した庫裡は平成15年新築し位牌堂も併設した。

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法将寺境内 木造不動明王坐像

法将寺の本尊不動明王、前座本尊は大日如来である。不動明王は、制作年代が室町時代にさかのぼる坐像である。像高49.9センチで、材質は木造、彩色、一部漆箔、玉眼で、寄木造りである。

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法将寺境内 子育て地蔵

ご本尊は地蔵菩薩で、祭礼は4月24日である。最近は24日に近い日曜日に集まる。豆腐の好きな地蔵様で、子どもの夜泣きで困ったときには豆腐をもってお参りすると、夜泣きが止まるといわれている。

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梓山 白山神社

棟札によると、明治20年11月7日社殿新造とある。祭神は白山比淘蜷_、須賀尾大神である。ご利益として歯痛の時お参りすると治るとされる。獅子頭2頭は母屋で保管している。

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真言宗醍醐派 蓮華山普門寺

当寺は永正10【1513】年、鏡運房の開山と古い。以前は行蔵院と言っていた。本山からの寺号許可書によると天明2年(1782)に普門寺と改めている。天明8【1788】年には上杉重定(鷹山の養父)が病気平癒の御礼参りをしている。明治5年以前は京都三宝院の修験宗末寺であったが、修験宗が廃止され真言宗醍醐派となった。現在の本堂は平成21年に新築した。

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普門寺境内 板碑供養塔 −鎌倉時代−

石つくりの卒塔婆で、鎌倉室町時代に死者の供養のために建てられたもの。関東地方に多く建てられている。置賜地方の板碑は置賜型と言われ特徴がある。大きい方が正安2年(1300年)庚子10月との銘があり古いものとして注目されている。

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普門寺境内 桑山観音 二十四番礼所

堂内には観音菩薩座像があり、置賜33観音霊場の24番札所である。観音菩薩座像は、像高80,7センチメートルで一木造り。体部は通して一木より彫出し、背部を縦に割って内刳りを施している。制作年代は室町時代(米沢の仏像−米沢市教育委員会)。お堂はェ保2(1742)年に再建され、4面には12支の干支の彫刻がある。

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普門寺観音堂内 木造観音菩薩坐像

木造一木造で室町時代の作である。像高は80,7センチメートル。構造は、頭・体部を通して、髻も含め一木より彫出している。背部を縦に割って内刳りを施す。頭部は内刳りを施さない。これの両膝部横一材を丸?(ほぞ)打ちで接合している。色彩はなく素地のままで、調眼、白毫(欠失)が刻されている。

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普門寺境内 桑山地蔵尊堂

別名田植え地蔵尊、まにあわせ地蔵尊として信仰されている。縁起によれば、文永3(1266)年、一人の尼僧が地蔵尊一体を奉じ数日供養して去った。この年6月疫病流行し村の人々は田植えすることもできず困っていた。翌日田圃を見渡すと一夜にして青田となっていたので、村民感涙して、観音堂並びに地蔵尊にお参りした。地蔵尊の足元を見ると、泥で濡れていた。これは地蔵尊が植えてくれたに相違ないと思った。村中の人々が集まり2夜3日供養した。この日より「田植え地蔵尊」と呼ばれるようになった。また稲作だけでなく生活が苦しく思い悩んでお参りすると、思わぬ戴き物があったり思わぬ返済があったりしたので、「まにあわせ地蔵尊」と呼ばれるようになった。春は4月29日が祭礼で、秋は11月3日に秘法柴燈大護摩火渡りが厳修される。

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万歳の松と駐輦の碑

明治22年市町村制が公布され、この時梓山村、桑山村、金谷村、堂森村、片子村が合併し万世村となった。同年7月8日初代村長に中村誠政之助(桑山)が就任した。  桑山字観音原(旧万世小学校庭)に明治22年明治天皇御少憩の地に記念として青松1株が植えられ記念樹「万歳の松」とした。また明治28年4月に「駐輦の碑」が建立された。小学校校庭にあった万歳の松は、学校行事と合わせて行われてきたが、昭和58年八幡原に移転してからは保存もままならなくなった。地区民相より全戸加入の万歳の松保存会を平成3年11月18日に発足した。平成21年3月17日告示で山形県景観重要樹木第1号指定となる。また翌22年4月1日には米沢市の景観重要樹木第1号指定となる。

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八幡原飛行場跡 八幡原飛行場記念碑(牛森公民館の庭)

八幡原1丁目の三ツ矢から入った一角に飛行場跡地碑が設置されている。米沢新聞社航空教室の第45回記念事業として建立された。ここから八幡原野球場一帯が戦時中八幡原飛行場として整備使用された。当時市内の女学校の生徒がグライダー訓練なども行った。戦後は県営競馬場として利用されたが3年ほどで終了した。

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八幡原競馬場(現八幡原野球場)

八幡原飛行場の跡地に公認競馬場を誘致してほしいと有志から米沢市に陳情があった(昭和22年1月4日)。わが地方は伝統的に産馬畜産の好適地であるばかりでなく、進駐軍によって既に八幡原に競馬場が設置されており、この施設の利用については軍当局の承諾を受けているということであった。県内1か所に設置する公認競馬場の誘致は、湯の浜と米沢が争っていた。県馬匹組合連合会競馬会創立準備委員会が同年1月29日開催され、米沢八幡原に決定した。第1回競馬会は同年9月21日から4日間開催され、150頭が出走し180万8,370円の売り上げがあり盛況に開催された。

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牛森古墳−H6年3月31日−【米沢市教育委員会指定】

山形県最南端の古墳。この古墳は梓山橋の北、八幡原緑地内にあり天王川(梓川)河岸段丘上の標高265メートルにある。昭和50年(1975)八幡原中核工業団地造成に伴う緊急発掘調査で古墳であることが判った。8世紀後半の横穴式古墳である。古墳からは?帯金具7点・刀子1点・鉄鏃1点・須恵器蓋1点が出土している。被葬者は奈良時代の下級官人と推定されている。出土品は米沢市の文化財に指定されている。

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堂森 慶次清水

堂森の民地、八幡原野球場のバックスタンドの裏側にあり、400年に渡って清水が湧いている。戦国武将で傾奇者として有名な前田慶次が堂森に無苦庵を立て住んだといわれ、生活用水として掘ったとされる。水量が多いため灌漑用水としても利用され、地元民からも慕われ悠々自適の生活を送った。慶長17年(1612)6月4日堂森で没。

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堂森 善光寺阿弥陀如来堂

御堂には善光寺式阿弥陀三尊像があり、如来像は全躯に銅を満たし重量感がある。中尊の金銅阿弥陀如来立像は50,5センチ、脇侍の観音菩薩、勢至菩薩はともに立像で34センチである。(室町時代作といわれる) <県指定文化財>                         ・木造見返り阿弥陀如来立像〜桧材、寄木作り、像高53センチ 造形的に芸術的で当時の水準の高さが分かる。死後極楽浄土に導く役割をするといわれる阿弥陀様が左後方を振り返る姿が美しく、見返り阿弥陀様といわれる。                              ・大江時広夫妻座像〜欅材、一木造り、時広像68.2センチ、婦人像50センチ鎌倉時代、長井の庄地頭として当地方を治め、米沢城を築き、白子神社を造営した。また仏法護持にも力を注ぐ偉大な領主とされる。室町時代の作とされ、当時の風俗を知る貴重な資料とされている。夫妻の肖像彫刻としては当地方では珍しい。

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堂森 前田慶次供養塔

戦国武将で傾奇者として有名な前田慶次が晩年上杉景勝直江兼続主従を慕って米沢城郊外の堂森に住み、この地で没した。慶長17【1612】年6月4日命日とされている。供養塔は昭和55年(1980)10月、善光寺酒井清滋住職により建立された。漫画「花の慶次」の主人公が実在の人物として認識され来訪者が後を絶たない。

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堂森 松心山善光寺(真言宗豊山派)本堂

本寺は善光寺阿弥陀堂の別当寺として、大同2年(807)の開基と伝えられる。本堂のほか庫裡、阿弥陀堂、地蔵堂、十大明王道、仁王門、鐘楼、位牌堂などがある。2度の火災で古記録の全部が焼失しているが、阿弥陀堂棟札再興記によると、建久年間(1190〜1198)に長田将次の妹益王姫が再興したもので、現在の阿弥陀堂は寛延3年(1750)に再興したものという。

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堂森 善光寺仏山十三仏

私たちの先祖は他界観を持っていた。人の死後、霊魂が生き続ける世界を他界とする。死者の屍は墓地に残り、魂は近くの山にこもり浄化するのを待ちより高い山に登ると言う。 置賜地方では仏山と言われる。善光寺の仏山には十三仏があり、八月六日に施餓鬼供養をする。先祖代々の供養板塔婆や新仏のある時は戒名を書いてもらい十三仏に納めお参りする。

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桑山 秋葉山

桑山観音堂の裏山に鎮座する。40年ほど前から地域の子供たちによって御神輿を出している。8月16日に火伏祭がおこなわれる。火伏のお札を配っている。

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桑山 山の神神社

桑山742−2(国道13号から桑山団地に入る途中)に数本の杉木立があり、ここに鎮座する。祭礼は春3月17日と秋11月17日である。春は早朝お経をあげてもらい、秋は公民館で夜直会をする。

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桑山 三宮神社

団地造成の時、地域にあった御水神、道祖神、洞禄神を合祀して三宮(さんぐう)神社とした。平成6年(1994)社殿建立。8月第1日曜日と12月31日を行事祭礼日とする。  御水神様は水の恵みと水害から守り、洞祖神は旅の道中無事の祈願と感謝を、洞禄神は耳の病気の回復を願い穴のあいた石を供える。

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金谷 八幡両所神社

大正4年(1915)9月、金谷の金谷神社と堂森の八幡神社が合併し、金谷八幡両所神社となる。八幡神社は戦いの神様であり、戦時中は出征兵士の祈願と見送りが行われた。金谷神社は、建久8年(1197)平維盛腹心の従者吉井某が鍛冶を好み、刀剣を鍛錬した。氏神を建立し金谷神社と称したと伝わる。現金谷遊園地。

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金谷 八幡両所神社境内の板碑

板碑とは板石塔婆のことである。板碑は五輪塔から変化したものと言われている。全国的には平安時代から建立されている。板碑の特徴としては、頭部が山形になっている、二条線がある、額部が突起している、碑面に種子(梵字)や紀年銘、願文が書かれているなどである。この三基は室町時代後期のものとされている。

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金谷 遊園地内の板碑

この板碑は厨子型板碑と分類されているもので、この種の板碑は万世に5基ある。  びっき石の農免道路整備に伴い移転されたものであるが、字根小屋にあるもので置賜では例のない双体五輪塔型で鎌倉後期頃の建立とされる。他に桑山山の神神社境内、堂森善光寺境内、県道の金谷T字路付近にあり、いづれも室町時代のものとされている。住民の信仰の深さが感じられる。

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桑山 愛宕神社

創建は古く、長井時広米沢在城の歴仁元年(1238)京都の愛宕山を分霊し、桑山の嶺に安置した(万世郷土史)。至徳3年(1386)伊達政宗に敗北し、神社も敗頽。村民神体を持ち出し自家に安置した。文明年間(1470頃)川井在城の伊達の臣茂庭周防これを尊崇し蛙石の峰に移す。天正10年(1520)茂庭仙台松山に移り、再び敗頽。慶長3年(1598)直江兼続米沢在城。前田慶次愛宕山を尊崇し一社を建立。昭和5年の御宮再建棟札に、元桑山鎮守愛宕山鎮守大権現宮社造営、文禄3年(1594)から339年とある。

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牛森 白子稲荷神社

現在の神社は明治15年に遷座した。文化3年(1806)牛森地理の図(米沢図書館蔵)には稲荷山の中腹に稲荷白子神社が描かれている。中腹に、今でも石宮がある。現在の場所には江戸時代には牛森役屋(牛森開発にあたった役所)があった。戦中は出征兵士を見送りした。以前は20数軒であったが現在は150戸ほどとなり祭りを中心に牛森の連携を深めている。

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牛森 白子稲荷神社内墾田碑

嘉永2年(1849)建立の墾田碑は、鷹山公の殖産興業で漆桑を植えたてたが、業績が上がらず、木は繁茂し日陰で野菜など育たないため薪などにして売ることにしたなど、当時の苦悩が書かれている歴史資料である。碑文は山田蠖堂(幕末の学者・詩人)撰。

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参考文献

  • 米沢の神社・堂宮―万世地区―


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