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万世を探検しよう
置賜地区では最古級の山城で、早坂山より北東に延びる尾根の先端部に位置しており、字名に「館山」と記されている。頂上部には幅5m、長さ12mの楕円形の主郭を置き、北西側から北側にかけての緩斜面に二段の帯曲輪を配置するのを特徴とする。
西側から北側は人工斜面、南側に大手もしくは、搦手とみられる道路と短い帯曲輪が付随する。北側に延びる尾根から山腹を横断する道路が北西に走り、約300m行くと根小屋(居館)となる稲荷山館に通じている。
稲荷山館は、土塁と堀を「L」字状に区画する半町四方の山寄式館跡で、概ね14世紀後半に成立した館跡とみられ、隣接する一町四方の梓山館との関連性も指摘される。
通称「羽山」と呼ばれる単独丘陵で標高510mの山頂部を中心として東西130m、南北80mの範囲に山城が築かれている。
遺構は主郭となる遺構群を帯曲輪で八巻状に配して西斜面から南斜面にかけて3m〜6mの畝状横掘と階段状のテラス群を連続多様するのが特徴で、南原地区の笹野山館、上郷地区の長手館と共通する。
城主は不明だが、畝状横掘は16世紀前半代の伊達氏関連の城に顕著に用いられる手法であり、当時の幹線道路であった赤浜から板谷に通じる「明神峠」を防御する目的で築いたものと推測される。
標高311.2mの堂森山から舌状に延びた丘陵上に立地しているもので、東西110m、南北40mの小規模な山城である。
中央部の幅5m、長さ15mの楕円形状のテラスが主郭で、北側を人工斜面、南側から東側の緩斜面は3m前後の帯曲輪を配置し、西側の尾根を縦堀と堀切で区画している。城主は不明であるが、帯曲輪の特徴から15世紀前半頃に構築された山城と推測され、南西裾に建立された善光寺との関連が指摘される。
北西の山裾には前田慶次が晩年を過ごした「無苦庵」が存在するが、慶次が堂森館の存在を意識したかは分からない。
堂森山の西側に広がる集落跡で、県内最古の方形周溝墓が見つかった。第1号周溝墓は東西12m、南北11mの方形状に幅1.3mの溝を廻らしたものであり、他に6mの2号周溝墓と5mの3号周溝墓の基が見つかっている。
方形周溝墓とは2世紀代に畿内に発生した弥生時代の墓制であり、東北南部には古墳時代に出現する。周溝墓とは溝の中心に棺墓を設置して僅かな土を盛った村長等の墓であるが、首長らが権力を誇示して大規模な古墳を作るようになった前段階の墓制と考えられている。
遺跡は4世紀前半代の集落跡であり、古墳の幕開けを示す遺跡として高く評価されている。
梓川の河岸段丘に立地する遺跡で、平成5年に発掘調査を実施した。遺跡は縄文後期前半の集落跡で竪穴住居跡の一部とみられる石組炉や土器を埋めた埋設遺構等が検出されている。
注目されたのは、人物を表した土偶の発見である。腕と脚部が欠損しているが、円形の顔に目と口を穴で表現し、鼻を粘土で盛り上げた特異な形状であり、現長が6.2p、幅3.1p、厚さ1.9pをなす。
土偶は当時、豊作や儀式の際に使用した祭祀用具と考えられている。
標高502.6mの早坂山頂上から尾根を利用して小規模な階段状テラス群を直線状に配するのを特徴とする。全長260m、幅95mを有するもので、中央部の方形や楕円形の狭いテラスが主郭となる。
遺構の構成は、北側の急斜面を人工斜面、南側の緩斜面を3m前後の帯曲輪と部分的に短い帯曲輪を配置し、西側に階段状帯曲輪を連続させて全体を構成している。
城の末端となる東尾根に2m〜3mの小規模な堀切を置き、反対の西端に城の入口となる虎口を設置している。
虎口からは北方向に道路が尾根と沢を巧みに折れながら麓へと続いており居館となる堤屋敷と繋がっている。
早坂山館は、時代とともに大きく発展する。北麓にあった居館の他に早坂山の南西側の沢を開拓して北の第1居館、南の第2居館、中央に第2山城を出現させた。
この第2居館を伴った最終形態が羽を広げた鷺の姿に似ていることから驚城の名称となった可能性がある。「米沢地名選」文化元年(1804)によれば驚城に関する資料としては次のように記載されている。
1.戸板山館(大津土佐守) 2.土肥館(土肥備中守)
3.土肥単館(土肥多備中守) 4.内鷺館(子梁川泥藩)
5.鷺城(不 詳)
こうした、複合型の山城は、複数の城主によって継続される場合が多く、高畠町の館ヶ崎館や南陽市宮内城等が知られている。
鷺城の年代であるが、早坂山館の創建期を15世紀後半頃、晩年となる第2山城の時期が16世紀中頃から後半頃を想定している。
鷺城は、拡張発展型の山城として注目され、第1山城の早坂山館を中心に、東西719m、南北920mと西の舘山城に次ぐ規模を誇る。