文化財
歴史豊かな万世を写真を交えながらお伝えします


1枚目です

阿弥陀如来立像(堂森善光寺)〜山形県指定文化財

通称見返り阿弥陀如来と言われている。全国には京都の永観堂見返り阿弥陀如来をはじめ数体あるが、この阿弥陀如来立像は左下に大きく首をひねり後ろを振り返り、その顔は目鼻立ちが整い優しく、まさに往生者を極楽浄土へ導く慈愛の表情と姿を表わしています。桧材寄木造り,像高53p、昭和30(1955)年10月25日山形県指定文化財となる。

2枚目です

伝長井時広夫妻座像(堂森善光寺)〜山形県指定文化財

大江時広は鎌倉幕府別当大江広元の次男である。源頼朝は、鎌倉幕府創建にあたり活躍した大江広元に置賜郡長井荘と村山郡寒河江荘の地頭職を与えた。広元は長男親元に寒河江を、次男時広に長井を分け与えた。善光寺は鎌倉初期、時広の保護所として崇敬を集めたといわれており、領主時広は仏法護持の真剣さを持つ偉大な人物であるといわれている。これはその人間性がうかがえる夫婦座像である。欅材の一木造り、時広像高68,2p、夫人像高50cm、昭和30年10月25日山形県指定文化財となる。

3枚目です

梓山獅子踊〜山形県指定無形民俗文化財

現在の獅子踊りは寛政9【1797】年から文化14【1817】年まで21年かかって復興した。獅子踊本記によると、梓山上組獅子踊りの先祖は、天正2年(1574)京都の紫宸殿で地固め踊りをしたことに由来するとある。その後寛永11年(1634)日光東照宮で地固め踊りをした文挟流の流れを汲むとされている。下組は会津彼岸獅子の流れを汲んでいる。上組下組とも数回の中断を経験しながら復興し、昭和29年共に復興した踊りが現在伝承されているものです。昭和52年1月25日上組下組あいまって保存伝承することとし、梓山獅子踊保存会として米沢市指定無形民俗文化財となった。平成4年12月1日山形県指定無形民俗文化財となった

4枚目です

牛森古墳〜米沢市指定文化財(史跡)

平成6年3月31日米沢市指定文化財となる。八幡原4丁目。本古墳は、八幡原緑地内に天王川(梓川)によって形成された河岸段丘上の標高265メートルに位置している。昭和50年に八幡原中核工業団地造成に伴う緊急発掘調査の結果、山形県では最南端の古墳であることが判明した。古墳は開墾等によって一部破壊を受けていたが、約8メートル前後の円墳で南に開口部を持つ8世紀後半の横穴式古墳であることが確認された。古墳の内部構造は玄室が横長の楕円形をなし、奥壁と玄門に凝灰岩を有するほかはすべて河原石を利用しているのが特徴である。なお出土品の?帯金具6点、刀子1点、鉄鏃1点は米沢市教育委員会所有で米沢市指定文化財となっている。

5枚目です

赤浜の草木供養塔〜米沢市指定民俗有形文化財

本草木供養塔は天保12年(1841)の建立で山の神神社境内の石塔群のひとつとして存在する。国道13号の新設工事に伴い、神社と周辺の石塔を現在地へと集約したとされるが、草木塔が当初所在していた位置については不明である。安山岩の自然石、高さ79cm、幅68cm、厚さ18p(看板内容)

4枚目です

刈安の草木供養塔〜米沢市指定民俗有形文化財

本草木塔は弘化2年(1845)の建立で国道13号に面した山の神神社の入口の鳥居の脇に湯殿山と出羽三山塔とともに並立している。碑文は頭頂部に梵字( )の大日如来を意味する(ア)を置き、その下方に「草木供養塔」向かって右側に「弘化二巳年」、左側に「八月八日」と刻まれている。日付の下に「東原寺」とあったとの記録もあるが現在は判読できない。万世地区に所在する江戸時代の草木塔はすべて山の神神社の付近に所在しており、山の神信仰と深く結びついていることが窺われる。安山岩の自然石、高さ81p、幅79p、厚さ17p(看板内容)

5枚目です

梓山の草木塔〜米沢市指定民俗有形文化財

本草木塔は嘉永7年(1854)の建立で草木塔では最大のものである。碑文は、中央に「草木塔」、向って右側に「一村中」右側面に建立月日の「嘉永七寅年十月二日」が刻まれている。台座と併せて凝灰岩を切り出して加工し、打ち込んだ鑿の痕跡や研磨跡が確認でき、表面は丁寧に研ぎ出したことが窺われる。江戸時代建立の草木塔はほとんどが自然石を利用している中、唯一加工石が用いられていることは注目される。万世地区に所在する江戸時代の草木塔はすべて山の神神社の付近に所在しており、山の神信仰と深く結びついていることが窺える。凝灰岩の加工石、高さ220センチ、幅125p、厚さ35p(看板内容)

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参考文献

  • 米沢市史
  • 米沢の仏像
  • 万世郷土史


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