会員からのメッセージ

私の役割は一生涯宴会係          遠藤 宏男

8ミリクラブが結成されたきっかけは、渡部俊ちゃんが5台の8ミリカメラを持ち込んだことから始まりました。それを売込まれたのが、故齊藤前会長、曽根原会長、滝沢君、それと私でした。何の知識も無く買わされたのですが色々指導を受けながら弄っていると面白くなり、家族で遊びに行った時撮影したのを家族皆なで茶の間の白い襖に映写して楽しんだものです。その後仲間を誘い当初十数人で「南陽8ミリクラブ」と命名し結成されたものと記憶しております。
 クラブとしての処女作品が熊野神社の参拝の模様を撮った「参宮」でした。早朝から全員で出かけ、カメラを回す人、それを助手する人、ナレーションを担当する人等全員で活動したものです。撮影終了後は現像が出来上がったフィルムを深夜まで編集したのが今では懐かしく想い出されます。私の役目は当時から宴会係で今でもそれしかやらせてもらえません。
その後は会員(私を除く)の技術も進歩し昭和54年にはついに作品名「稲荷森古墳」が全国自作視聴覚教材コンクールで優秀賞を受賞し、クラブ員全員で東京での表彰式に行き大騒ぎをしてきたものです。その日は六大学野球の「早慶戦」が神宮球場で行われておりましたので私は一人で野球見物を満喫しておりました。
 映像以外でも結成十周年を記念して佐渡の太鼓集団「鼓童」公演を開催し市民会館を超満員にしたものでした。又、平成24年には「ふるさとの童謡ないしょ話」の作品が全国コンクールで優秀賞を受賞したことを記念し「ないしょ話童謡コンクール」を企画、各種団体の協力とご支援を受け開催しましたが大成功裏に終了したことにより、少しは地域の活性化に貢献出来たものと思っております。
 当クラブに入会するには会員全員の賛同がないと入会出来ないと言う鉄則があり、入会したくても涙をのんだ方?もたくさんいたのも事実でありました。そのことが現在も仲間としての絆を深め無礼講で付合いしてこれたことが三五年もの長い間継続できた大きな要因だと感じております。
 小生も人生のカウントダウンの年齢になりましたが、今まで通りに宴会係としてお付き合いさせて戴ければと思っておりますので今後ともよろしくお願いいたします

8ミリクラブの8は横にすると無限大   中村 勇七

国民の酒場坂田屋はァ安くて料理が旨いー♪♪名女将のおさどちゃの笑顔が浮かぶ。楽しく飲ませ且つ唄い語らせてくれた。その二階のスナック「ポパイ」、その又中二階の座敷で私の8ミリクラブのフィルムは廻り始める。
或る夜、「今呑んでだから」と後に常套手段となる「俊ちゃん電話」の誘惑に乗り出掛けたばっかりに。もう45年か…。
 旧結城記念館の一室を借り機器類も乏しく手作業での音入れの際、録音機とストップウオッチを駆使しやっと終る頃に近くでクラクションが鳴ったり、遅れて来た会員が大声で登場したりでやり直しが常だった。終了後、時を忘れ談笑し呑んだ酒の旨さと共に忘れられない。様々な試行錯誤の中、東映映画のタイトルを模して起き上がる細工をしたり、字幕を回転させてみたり、中でも白手袋を着けて挑戦した大鳥居の築造工程のアニメ制作が楽しく思い出される。又公開映写会も忘れ難いが、様々関った多くのイベントの中でも、クラブ10周年記念「鼓童」公演は特筆に価する快挙であった。他の協力を得ながらも、僅か15,6人の愛好会が南陽市に始めての公演を実現した。しかも2千円での大入り満員。度肝を抜かれた音と光、動と静のパフォーマンスに感動し酔い痴れた。もしも赤字の時は皆で埋め合わせをなどと、多少悲壮的な算段をしたのも懐かしい。「鼓童」との交流会では、協力を頂いた暴れ獅子太鼓はじめ市内太鼓集団の談義に花が咲き大いに盛り上がった。「鼓童」は以後、南陽市で五年連続の公演となり語り草となる。平成7年、映画祭が機会となった斎藤耕一監督、八重子夫人とのその後に続く交流は真にかけがいの無い貴重な所産となり、映画「おにぎり」に大きな花を咲かせる。携わり体験したイベントや交流が、当市の芸術文化に多角的な影響を与え様々な実を結んでいる事を嬉しく思う。
会員であった太田先生の話を思い出す。「8ミリクラブ」の8は横にすると無限である」と。
そう、意志や夢は果てしないのだ。フィルムは廻り続ける。

イベントはいつもドキュメンタリー  渡部 俊一  

 平成6年12月22日正午過ぎ、今は亡き、斎藤洋一郎君と東京阿佐ヶ谷の映画評論家白井佳夫さんを訪ねた。事前に訪問のアポはとっていたが、誰も玄関に現れない。奥で電話が鳴り響き、早口で喋る男の声が聞こえる。何分待っただろうか、ようやく週刊誌やテレビで見かける気むずかしい顔をした本人が出てきた。あがってくれと促され、恐る恐る二人で靴を脱ぎ部屋に入った。白井さんが言うには、この日の午前、女優乙羽信子が亡くなりコメントを求めるマスコミの電話取材でごった返しているとのことだった。早速、山形県の南陽市という町で郷土を題材に映像制作をしている南陽8ミリクラブという、吹けば飛ぶような小さなグループが、町の八つの地区を映画の上映とゲストを招き、「映画巡業」と言うイベントを開催したいので協力して欲しいと話した。当時、劇場映画の「河童」(監督:石井竜也、出演:陣内孝則他)や吉永小百合主演の「鶴」(監督:市川崑)等、伝説や民話を題材にした映画が話題を呼んでいた。町には「鶴の恩返し」の民話が伝わり、二人が所属する会が、翌年、結成二〇周年を記念して民話や伝説を題材とした映画を上映し、映画評論家と出演した俳優に来てもらい、「映画巡業」を行いたいことを懸命に説明した。その間、一言も話さず聞いていた白井さんが「趣旨はおおよそ分かった、予算はいくらあるのか」ポツリと尋ねた。十数人の会員で月千円の会費で運営している会に予算はもちろん一銭もなかったが、100万円ぐらいは集められるだろうと斎藤君と話をしていたので、「100万円程度」と答えた。白井さんは身じろぎもせず「ウーン」と、うなり、しばらくだまりこんでいたが、「私の講演料は通常25万円程いただいている」と言った。白井佳夫さんの講演料だけで、8回開けば200万円かかる計算だ。そして、「河童や鶴といった映画は、みんなに勧められるような出来映えの映画では無い」とも付け加え、「もう少し予算を増やせないか、8回は予算的にもゲスト俳優を招聘するのにも無理だ」という返事だった。全く当てはなかったが、「予算は何とか倍ぐらいは確保する」と答えた。白井さんは、「君たちの熱意は分かった、何とかしたい」と言い、「斎藤耕一という日本を代表する監督がいる。この監督の作品を4回シリーズで行い、講師は監督と私、ゲストも毎回連れて行く」、さらに条件として「戦時中軍部の検閲で映画のシーンの一部がカットされ、戦後、米国占領軍により一部シーンがカットされ二重の検閲を受けた、無法松の一生という名作がある。このカット部分を生の朗読で復元する市民運動をライフワークとして行っている。市民参加の映画無法松の一生完全復元パフォーマンスをやってくれれば何とかする」と提案された。斎藤耕一監督がどんな人で、作った映画を観たこともなかったが、斎藤君と二人で「お願いします」と答えていた。翌、平成7年「日本映像祭 IN なんよう’95」開催、そして、この映像祭をキッカケに斎藤耕一監督や八王子文化連盟、八王子いちょう祭り実行委員会の皆さんと南陽市民との交流が始まったのである。映像祭は何とか無事終了したが、700万円を上回った経費の支払いのため、8ミリクラブ所有の機材を売り払うハメになったのである。それから9年後、平成十六年一月十七日、市民会館を会場に南陽市が舞台の斎藤耕一監督作品、映画「おにぎり」の完成披露市民上映会の幕が上がった。まさに、イベントはドキュメンタリーである。

「南陽8ミリクラブ」入会時の思い出 大場 博

 私が南陽8ミリの存在を知ったのは、新卒で鶴岡の勤務地に赴任して間もなくのことであった。それまでは20歳を過ぎた頃から始めた8ミリカメラで家族の動く映像を記録したいと、とても高価なフィルムを入手しながら撮影をし、記録していた自分に、同僚だった加藤幸一さんから様々なアドバイスをいただいていたが、彼との会話から南陽市に映像クラブが活動していることを知り、いつか自分も転勤で南陽市の自宅に戻ったら是非に加入したいと思っておりました。
 そんな中、昭和57年4月に、偶然にも2人同時に置賜に転勤し、私は自宅、加藤さんは赤湯の官舎に入り南陽市に住むことになりました。間もなく加藤さんは南陽8ミリクラブに入会し、機器や撮影手法の力量を遺憾なく発揮されました。私はというと、職場と家庭中心の日々を過ごしつつ、時折8ミリカメラを動かしておりました。加藤さんとは時折交流をしており、「鼓童」の公演のチケットを紹介され夫婦二人で鑑賞しました。南陽8ミリクラブの活動の様子は加藤さんからほどほど得ておりました。暫くして、加藤さんが山形に転勤することになり、空席となる会員の席を紹介され、「糸柳」にて顔見せ審査の会に出席したことが思い出されます。そして、そこでは「正式に会員となる条件が、酒が強いことである。」とのことで、会員のみんなが酒豪で大変怖い存在であるように思え不安なまま、入会したのでした

鼓童」公演が満員の大盛況     後藤 典昭

『南陽8ミリクラブ』結成四十五周年になりました。その中で私は、入会させていただき何年になるのでしょうか?記憶をたどると私が南陽市の市民になり3年目に家業の電気屋を継いで間もなくのころだったと思います。赤湯公民館に、仕事でお邪魔していたころ、その時の公民館長代理として渡部事務局長が勤務しておられました。その頃、家電業界ではビデオブームでデッキはもちろんのこと、ビデオカメラをいち押しで販売をしていました。赤湯公民館の事務室でそんな話をしながら、お茶をいただいておりました。すると渡部事務局長から8ミリクラブの話を聞き、8ミリクラブもこれからは、ビデオも取り入れていかなくてはと思っているとのことで、電気屋もクラブに入ってみないかと声を掛けられたのが始まりでした。ただそれが何年なのかがはっきりしませんでした。携わった事業から推測すると、十周年記念事業として行った「鼓童」公演は、入会して2~3年目の事だったと思います。当時「鼓童」は、東京サントリーホールのこけら落としで公演するなど、世界で活躍するほどの有名な和太鼓集団でした。そのチケットをわずか二千円で購入できるにも関わらず、この辺りでは、知名度が低く「太鼓に二千円?酒一升のお土産も付くのか」などと言う方もおられました。しかしながら結果は、満員の大盛況に終わり、なんと以後5年連続公演とまでなりました。たった十五、六人の会員の会が、これだけのイベントをやり遂げたことに驚愕したものでした。そのような強烈な記憶があるので、結果、私が入会させていただいたのは、昭和五十九年の冬頃ではないかと思えます。
それから三十九年、視聴覚教材の制作、全国アマチュア映像コンクールの開催など様々な事業に関わらせていただき、8ミリクラブの一員として仲間としてお付き合いをしてこられたことに感謝。

 

「ふるさとの童謡 ないしょ話」のそれから 加藤 正人

「ないしょ話」が日本の歌百選に選ばれた。南陽市に生まれた結城よしをの作詞したこの歌が、スマップの「世界にひとつだけの花」や美空ひばりの「川の流れのように」と並んで日本の歌百選に選ばれていることに驚いた。この「ないしょ話」が南陽市と縁の深い歌であることを知り、これこそ教材制作のテーマであると、8ミリクラブでは平成19年2月に「ないしょ話」の制作をスタートさせた。何度もシナリオを書き直し、取材を繰り返し、遠く鶴岡市や酒田市にも出向いた。ゆかりの人のインタビューも行った。4年余の制作期間を経て作品が出来上がった。地区や県のコンクールで最高賞を受賞、文部科学大臣賞も夢ではないと思った。しかし、残念ながら最高賞をのがし優秀賞で終った。
 作品の制作は終ったがその後があった。広く市民に愛される歌として歌ってほしいと「ないしょ話童謡祭」を行い、大きな反響をよび大成功のうちに終った。「ないしょ話」の教材制作は終ったが、この歌を通して、童謡の素晴らしさはもとより、「ないしょ話」が生まれた南陽市を多くの人々に知ってもらう貴重な機会となった。制作当初に書いたシナリオ(没になったが)の一節に次のようなナレーションを考えていた。「新幹線が赤湯駅に到着すると、ないしょ話の曲が流れ、新幹線を降りた乗客を迎えました。南陽市はないしょ話のふるさととして、親と子のあたたかな通い合いあふれる街です。」と。「ふるさとの童謡ないしょ話」には続きがあります。
私達の住む南陽市がどこよりも素晴らしい街として誇りをもち、南陽市の活性化を目指し8ミリクラブはこれからも教材制作に取り組んでいかなければならないのではないか。

今でも飲めない人は会員になれない? 清水 守

んう~…。45年、もうすぐ半世紀。現在事務局長をしている俊ちゃんに誘われて加入したのがつい最近のような気がするが、年月の経つのが早く、初老の年齢となった。
8ミリクラブが始まった頃は、クラブでの撮影、編集には、なんといっても人数が集まらないと作業にならなかったことを思い出す。集まっては作業し、酒を酌み交わし深夜に及ぶことはもちろん、徹夜することもあった。当時の若さがそうさせたのかもしれないが、これも楽しみの一つであった。現在では、撮影や編集機材が発達し、機材が揃えば一人でも映像作品が出来上がる時代なった。
私は月1回の例会にもなかなか参加出来ずにいるが、たまに出席した時は、みんなと楽しい宴会。当時を思いだし、酒、酒、酒・・・、これが楽しみ。新規の会員となるには全員の賛同がなければ加入ができず、酒が飲めない人は会員となれないという約束があった。今でも飲めない人は、クラブの会員になれない?クラブの悲願である全国コンクールで最優秀賞を早く取りたいね。