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このページは、山形県東置賜郡川西町犬川地区の公式ホームページです。 犬川地区交流センターの事業、地域の皆様の活動などを紹介しています。

TEL.0238-42-2642

〒999-0133 山形県東置賜郡川西町大字小松614-2

犬川の紹介

「犬川」の地名の紹介

「いぬかわ」の由来は、明治22年「犬川村」が誕生しました。当時から、玉庭を源流とする犬川が、この地域のほぼ中央を縦断して流れていたことから、この村の名前を「いぬかわ」としたといわれています。
 そもそもこの「いぬかわ」の「イヌ」は、アイヌ語で「イル」=魚がたくさんいるという意味からきていて、 「イルカワ」が変化し「いぬかわ」になった…という説もあります。


下小松古墳群・里山

 下小松古墳群は、下小松山と呼ばれる里山に4世紀から6世紀に渡って造られ続けた「東北有数の大古墳群」です。古墳群は全体で5つのグループにわかれ、その中で国指定となっている「薬師沢」「鷹待場」「小森山」3支群の古墳数総数は、179基にのぼります。
 このうち小森山支群には、山形県下の前方後円墳の約半数である17基が集中しています。  古墳の広がる丘陵地帯には、春・4月から6月にかけて「ショウジョウバカマ」「オオイワガミ」「ニッコウキスゲ」「ひめさゆり」「キキキチョウ」など高山性の植物が次々と咲き誇ります。  また、「チョウセンアカシジミ」や「ハッチョウトンボ」など希少な小動物が生息する豊かな里山です。
 2003年(平成15年)には、「里山保全地域指定」を受け、2010年(平成22年)には、「山形県景観条例・景観回廊」の指定を受けました。

川西町まちづくり課 電話:0238-42-6613
〒999-0193 山形県東置賜郡川西町大字上小松1567番地


道伝遺跡・長堀堰

【導伝遺跡】
 下小松の道伝の水田から古代の柵木と思われる杉丸太が掘り出され、昭和54年に大規模な発掘調査が行われた。  調査の結果、これらはただの丸太ではなく横木を組み合わせたと思われる穴があけられており、等間隔に並んだ柱根やたくさんの木簡も発見された。   それらのことから、ここは置賜郡の役所があったのではないかという結論を得られた。54年の発掘作業には、下小松をはじめ地元住民の方々が多く関わり、出土した土器や木簡等は現在、川西町埋蔵文化資料館(現在閉館)に保管されている。 (参照:川西町史 上巻より)

【長堀堰】
 1625年、島貫源兵衛という下小松の人が白川の水を山のすそをまわって、犬川に引くことを計画した。1643年、19年もかかって完成。後の1818年(江戸時代文政元年)には飯豊山に穴せき(新潟県に流れる水を山のトンネルで山形県に流した)が完成し犬川・大塚・高山に水を引くことができた。 (まなぼうクラブ記録 第2集資料より)


略歴

明治22年(1889)
市町制の実施により犬川村誕生(下小松村、小松村、高豆蒄、黒川村を合併)
明治34年(1901)
犬川村農会発足
明治36年(1903)
字小松地区耕地整理
明治41年(1908)
犬川青年会結成(会員198名)
大正 7年(1918)
犬川村に電灯がつく・青年団に関する県令で市町村連合青年団設立
大正 9年(1920)
犬川青年団(戦前)発足(初代会長に藤倉泰三郎氏)
大正15年(1926)
米坂線米沢今泉間開通、児童の旗行列、村民の祝賀会
昭和 9年(1934)
豪雨による水害、大凶作(近隣村で農村子女身売多し)
昭和18年(1943)
国民学校・青年学校の教育振興のため教育後援会を設置
昭和20年(1945)
犬川氾濫(広島・長崎に原爆投下)
昭和21年(1946)
犬川青年団(戦後)結成
昭和22年(1947)
新学制により村立犬川小学校となる 六三制の義務教育)
昭和23年(1948)
犬川村農業協同組合発足
昭和24年(1949)
犬川村公民館開設
昭和26年(1951)
第一回犬川村花まつり開催
昭和30年(1955)
川西町が誕生 犬川村から犬川地区となる(人口3,002人 戸数469戸)
  〃
町立犬川小学校となる(児童数 396名)
昭和33年(1958)
犬川地区旧公民館竣工
昭和37年(1962)
犬川地区老人クラブ結成、若妻学級設立(150名)
昭和42年(1967)
羽越水害(犬川冠水、犬川駅付近線路が流される)
昭和49年(1974)
コロニー「希望が丘」開所 マラソンスポーツ少年団発足(70名)
昭和50年(1975)
犬川農協支所新築落成 大豊作
昭和51年(1976)
犬川地区公民館新築落成
平成14年(2002)
公民館公設民営化(犬川地区社会教育振興会が受託)